2014年09月18日

入院の日

母の具合が悪くなり、一昨日入院して検査を受けることになりました。
わたしは、土浦と三鷹の実家の往復(片道2時間半かかります)で、めまぐるしい日々を過ごしています。
そのような中で、「花子とアン」の中で語られる言葉に励まされています。

どんなに暗い朝でも、必ず朝がやってくる。
アンも言ってるわ、「朝はどんな朝でも美しい」って


曲がり角をまがった先に、何があるのかは、わからないの。でも、きっといちばんよいものにちがいないと思うの。

思いもかけないことが起こると、悪い方、悪い方へと考えて不安になってくるのですが、神様に目を向けると、良い方に向かっているにちがいないと思えてきます。

なぜなら、神様はいちばんよいものを用意してくださるからです。最善をなしてくださるからです。
目の前で起きていることばかり見つめていると、絶望的になることもありますが、視点を変えると、苦しみが美しい絵をひきたてる重要なものとして描かれているのだろうと思えてきます。

入院の日の朝、母と一緒に「花子とアン」を見ていました。

「神は天にあり,世はすべてよし」
テレビから流れてきた言葉をメモして、バッグの中に入れました。

85歳の母は、(お産の時以外)初めての入院です。父や妹やわたしは何度も入院しましたが、母はいつも元気でした。

入院にはやはり不安があるようです。入院前日(15日)の夜は落ち着かず、家の中を歩き回っていました。そんな母を座らせて短い時間でしたが、共に聖書を読み、イエス様のことを話し、母の手を握って祈ることができました。

その聖書箇所は創世記28:15です。
「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしはあなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」

「神様はお母さんがどこへ行っても一緒にいてくださり、守ってくださるよ。
神様はお母さんを必ず元気にして、連れ戻してくださる。この地はこの家のことだね。」
と言うと、母は黙って頷きました。

「神は共におり,入院はすべてよし」です。
posted by 土筆文香 at 16:39| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月09日

老いの重荷は神の賜物

高齢者顕彰礼拝で読まれた詩を紹介します。

「最上のわざ」 作者:ヘルマン・ホイヴェルス

この世の最上のわざは何か

楽しい心で年をとり
働きたいけれども休み
しゃべりたいけれども黙り
失望しそうな時に希望し
従順におのれの十字架をになう

若者が元気いっぱいで
神の道を歩むのを見てねたまず
人のために働くよりも
謙遜に人の世話になり
弱ってもはや人の為に役にたたずとも
親切で柔和であること

老いの重荷は神の賜物
古びた心で最後の磨きをかける
真のふるさとへ行くために
おのれをこの世につなぐくさりを
すこしずつはずしていくのは
まことにえらい仕事
こうして何も出来なくなれば
それを謙遜に承諾するのだ

神は最後に一番良い仕事を
残してくださる
それは祈りだ
手は何も出来ないけれど
最後まで合掌できる
愛の恵みを求めるために
すべてをなし終えたら
臨終の床に神の声を聞くだろう
来よ わが友よ 汝を見捨てじと



詩を読んで、年老いて何もできなくなったとき、それを受け入れることが大切なのだなあと思いました。
人のために何かできることは嬉しいことですが、何もできなくなる日が来るのです。それを嘆くのではなく、受け止め、親切で柔和でいられたらいいですね。
「老いの重荷は神の賜物」として受け取ることができれば、平安な気持ちで過ごせるでしょう。
そして、神さまが最後に残してくださった手で、天国に行くそのときまで祈ることができるとは、何と幸いなことでしょう。

posted by 土筆文香 at 21:25| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月05日

赦すとは……

先日の水曜礼拝では「ヤコブの神」というテーマでメッセージを聞きました。
一時間以上に及ぶメッセージでした。ヤコブの生涯について語られたのですが、ヤコブの息子ヨセフのことにも触れ、『赦す』ということについて新たに教えられました。


ヨセフには11人の兄弟がいたのですが、父ヤコブに特別扱いされ、ヨセフだけそでつきの長服を着ていました。そのことで兄たちはヨセフを憎みました。

ヨセフは11の麦の束が自分におじぎをした夢、太陽と月、11の星が自分を伏し拝んだという夢をみます。それを兄たちに話をしたことで、兄たちはヨセフに殺意を抱くようになります。

ヨセフは兄たちの計らいによって、エジプトに売られてしまいます。父ヤコブには、動物の血をつけたヨセフの長服をみせて、獣に殺されたと話します。

ヨセフはエジプトで奴隷として働かされ、あらぬ嫌疑をかけられて牢屋に入れられますが、何年もたったあとで牢屋から出されます。

ヨセフはエジプトの王、パロの夢の意味を解いたため、エジプトの大臣になります。その後、パロのみた夢の通りエジプトの付近はひどいききんにおそわれますが、ヨセフのおかげでエジプトはききんのときにも食料が十分蓄えられていました。

そのうわさをきいて、ヨセフの兄弟たちが食料を買いにエジプトにやってきます。兄弟たちとひさしぶりに再会するのですが、兄たちは大臣がまさかヨセフだと思いません。ヨセフは涙をこらえて最初は知らないふりをしていました。

そして、とうとうこらえられなくなって、自分がヨセフであることをあかし、兄たちと涙の再会を果たすのです。
ヨセフは父ヤコブと兄たちとその家族をエジプトに招いて住まわせます。ヤコブが死んだとき、兄弟たちはヨセフが復讐するのではないかと恐れます。(創世記37章〜50章に書かれています)

そのときに言ったヨセフの言葉を紹介します。
「ヨセフは彼らに言った。『恐れることはありません。どうして私が神の代わりでしょうか。あなたがたは、私に悪を計らいましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。(創世記50:19-20)」

ヨセフ物語を読むと、ヨセフが兄たちを赦したことに心打たれます。なぜ赦せたのでしょう……。その理由を何年も探っていました。
父親に愛されて何不自由なく暮らしていたのに兄によってエジプトに売られてしまったこと。エジプトの地で辛い目に遭ったことなど思うと兄たちをすんなりと赦すことはできないと思ったのです。

ヨセフは、自分の心に留めておけばいいのに兄たちに夢の話をして憎しみを買うようなことをしてしまいました。その罪に気づき、兄たちのしたことは仕方のないことだと思ったから赦せたのかなと思っていました。でも、そうではなかったのです。


ヨセフは「あなたがたは、私に悪を計らいました」と言っているので、兄たちのやったことは悪いとみなしています。
赦すというのは、過去が悪くないというのではなく、過去の事実に神が新しい意味をくださったことを知ることなのだと教えていただきました。

兄たちがエジプトに売りとばしたことを、『神が遣わした』と捉えられたとき、赦すことができたのです。
ヨセフがこの心境になるまでには20年の年月が必要だったと聞いて、納得しました。

エジプトに売られた当初は、葛藤もあったでしょう。牢屋に入れられたときは、まじめに働いていたのになぜ?という思いもあったでしょう。でも、ヨセフはいつも神様を見上げていました。
牢屋にいるとき、ヨセフが献酌官の夢を解き明かし、献酌官が赦されて牢を出されたので、無実の罪で牢に入れられた自分のことを王に話すように頼みました。ヨセフはこれでようやく牢屋から出されると期待したことでしょう。

ところが献酌官は忘れてしまいました。いつまでたっても牢屋から出されないので、ヨセフは辛かったことでしょう。でも、神様の時を待っていました。

出されたのはパロが不思議な夢をみたときでした。パロの夢を解いたことで、ヨセフはエジプトの大臣になるのです。

牢から出される時が神の定めた時だと思わずにはいられなかったでしょう。そして、最初は憎んでいたかもしれない兄たちのことを赦せるようになったのは、ヨセフが兄たちがしたことすら神の計画の中にあったのだと気づいたからなのでしょう。
赦すには時間が必要なこと。意味の転換をして、「神様」を主語として考えることができたとき赦せるのだと気づかされました。
posted by 土筆文香 at 13:12| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月02日

母の背中

早9月に入りました。
年を重ねるごとに月日のたつのが早く感じられ、それでいて何かをしようとすると今までの何倍もの時間がかかっています。本当に大切なことは何か考えて、選びながらやっていかないといけないなと思っています。

先週実家に行ってきました。8月は2回目です。30日にお茶の水で用事があったので、前日から行って泊まりました。日帰りでもよかったのですが、85歳の母がまた食欲がないというので心配で実家に寄りました。
母は涼しくなっても食欲が出ず、ひとまわり小さくなってしまった感じです。

夕食を作ると、おいしいと言ってよく食べていたのでほっとしました。でも、翌日「久しぶりにたくさん食べたから、胃がもたれて……」と朝食も昼食も食べずじまいでした。

おやつに煎餅を持って行くと、食べられないと言ったので驚きました。以前あんなに好きだったのに……。歯が悪いわけではありません。欲しくないのだと言って袋を開けもしませんでした。

カロリー補給の食品や飲料を買って行ったこともありましたが、味が気に入らないと言って口にしてくれません。胃が小さくなっているので、一日に何回かに分けてゆっくり食べるように言いました。

そんな母になんとかイエス様のことを伝えたいと祈っていました。これまでわたしが書いた証しの文章はほとんど読んでもらっています。他の人が書いた信仰の証し文。三浦綾子さんの本も読んでもらっています。
でも改めてイエス様がしてくださったことを話していなかったので、以前、癌で余命わずかと言われた父に話したようなことを話そうと決心していました。

でも、向き合うと話し出すのが難しく、『この次にしようかな。』『今はやめておこう。』という気持ちになってしまいます。

わたしが実家に泊まるときは、お風呂上りにいつも母の背中に軟膏を塗るのが習慣になっていました。3種類もの薬をカサカサになった背中に塗るのです

一人暮らしのため普段はできないことなので、母にとって、そのときが至福の時になっています。わたしは背中に薬を塗りながら、『今だ!』と思って伝えました。

神様が天と地を創造してくださったこと。わたしたち人間を造ってくださったこと。造っただけでなく、とても愛しておられること。
人は神様のいいつけを破ってしまったために、魂が滅びてしまうようになったこと。
神様は愛する人間が滅びてしまうのが忍びなくて、ひとり子のイエス・キリストを地上におくり、十字架につけて人間の代わりに罰を与えたこと。イエス様が身代わりになってくれたことで、人間はイエス様を信じるだけで永遠のいのちをいただけるようになったことを話しました。

「神様がいること、神様が人間を造ったことは信じるけれど、イエス・キリストが神の子とは思わないし、救ってくれたとも思わない」
母はきっぱりと言いました。

わたしはがっかりしませんでした。神様の存在を信じてくれただけで一歩進んだと思ったのです。かつては無神論者でしたから。
それよりわたしが母に伝えられたことが嬉しかったです。肉親に伝えるのは、友人に伝えるより難しいと思います。

とにかく伝えられたのだから、母の心の中に入ったのです。それがいつか熟して、信じ、受け入れられると確信しました。そうさせてくださるのは神様です。わたしはただ祈るだけです。
posted by 土筆文香 at 16:57| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月22日

嫌いだった自分

大雨によって広島で大きな土砂災害が起こりました。
今は九州が危険な状況になっているそうです。どうかこれ以上被害が出ませんように。
どうか被害に遭われた方を守ってください。


今朝、旧約聖書の詩編139編を読みました。この詩はダビデが書いたものです。
ひとつひとつのことばが心にしみこんでいきました。
「アーメン(その通り)、アーメン」と言いながら読みました。

自分のことが嫌いでたまらず、自分がみじめでならなかった中学生のころを思い出しました。
かつてわたしは、もし神様がいて、自分が神様によって造られたのなら、神様は意地悪で不公平だと思っていました。

「どうして、こんなふうに造ったのですか?」と訴えたい気持ちでした。
訴えたら神様は「きみを造るとき、ちょっと失敗したんだよ」と言うかもしれないなどと想像していました。

わたしは自分を馬鹿にした人、いじめた人を嫌いました。でも、いちばん嫌ったのは自分自身だったのです。
体が弱かったこと、喘息という持病があったこと、内気な性格。運動神経が鈍く、並はずれて不器用だったこと。そして容姿も嫌っていました。
自分にいいところなど何もないと思っていました。

すっと後になってから教会に導かれ、自分が神様によって造られたことを知りました。
造ってくださった神様がどんなお方か教えていただきました。
神様は、不公平な方でも意地悪な方でも失敗する方でもないことを知りました。
「それなら、なぜわたしがこんなふうなんですか?」 
暫くの間は神様に抵抗していました。

でも、あるとき自分のことが受け入れられたのです。人と比較してあの人より劣っている、あるいは優れているという思いから解放され、自分の弱さを含めて欠点をそのまま受け入れられたのです。

聖書を読んだとき、神様が「わたしは目的を持ってお前をそのように造った。そのままのお前でいいんだよ。」と言ってくださっていることがわかりました。神様は、かけがえのないひとり子のいのちを与えてまでわたしを生かしてくださったのです。
詩編139:13-18まで紹介します。


それはあなたが私の内臓を造り、
母の胎のうちで組み立てられたからです。
私は感謝します。
あなたは私に、奇しいことをなさって
恐ろしいほどです。
私のたましいは、それをよく知っています。
私がひそかに造られ、地の深いところで仕組まれたとき、
私の骨組はあなたに隠れてはいませんでした。
あなたの目は胎児の私を見られ、
あなたの書物にすべてが、書きしるされました。
私のために作られた日々が、
しかも、その一日もないうちに。
神よ。あなたの御思いを知るのは
なんとむずかしいことでしょう。
その総計は、なんと多いことでしょう。
それを数えようとしても、
それは砂よりも数多いのです。
私が目ざめるとき、
私はなおも、あなたとともにいます。
posted by 土筆文香 at 12:58| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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