2013年01月31日

守られている

昨日の水曜礼拝は主の祈りの最終回でした。(1月24日のブログの続きです)

主の祈りの最後は「私たちを試みにあわせないで、悪からお救い下さい」です。
〔国と力と栄は、とこしえにあなたのものだからです。アーメン〕は、後に付け加えたものだそうです。

「試みにあわせないで」というのは、つらいこと、試練にあわせないでという意味なのだと思っていました。ところが、試み(原語はペイラスモス)というのは、試練という意味と、誘惑という意味があるそうで、主の祈りの「試み」は、悪に引き込んでいく誘惑という意味だと教えていただきました。

誘惑と聞くと、恐ろしくなります。
誘惑は外からやってきます。その人が悪いから誘惑がやってくるわけではありません。イエス様も荒野で悪魔の誘惑を受けました。

イエス様は悪魔に対してみことばをもって対抗され、悪魔は離れていきました。

でも、わたしには悪魔と戦って勝てる自信がありません。悪魔は心のすきをねらってきます。最初は悪魔だとわからずに心地よいものとしてやってきます。

でも、むやみに恐れるのはやめようと思いました。悪魔と戦うのはわたしではなく、共におられるイエス様だからです。

「わたしは大丈夫」と思っているときは、足をすくわれることがあります。わたしたちを悪霊より守ってくださる存在にいつも目を向けていたいと思いました。

晴佐久昌英さんの詩が紹介されました。守ってくださる存在が確かにあることを思わせる詩です。

「手」


病室の窓から見上げる空はむやみに明るい

治らないわたしはこんなに暗いのに


病室の窓から見下ろす街もやたらと元気だ

出られないわたしはもはや亡霊のよう


消灯後の一人部屋に時計の音がいつまでも続く

あといくつの夜を耐えればゆるされるのか

治してください生かしてください

もう一度だけもとに戻してください

歩かせてください食べさせてください

もうこれ以上いじめないでください

せめて今夜だけでも痛みをとりのぞいてください

もうだめですもう限界ですもうこれ以上



闇の中へ思わず手を伸ばした瞬間

何かにさわってはっとする

だれもいないはずの深夜の病室

数秒息を止めてようやく気づく


さわったのではない

さわられたのだ

むこうから伸ばしてきた手に



晴佐久昌英・著  だいじょうぶだよ より

posted by 土筆文香 at 17:14| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月28日

レ・ミゼラブルを観て

遅ればせながら映画「レ・ミゼラブル」を娘と観にいってきました。想像以上にすばらしかったです。

4年前、ネット読書会で原作を読んでいたので、原作に比べると物足りない感じはありましたが、158分の時間内にしっかりテーマを捉えてこれだけの作品にまとめられていることに驚きを覚えました。

ミュージカル映画だと聞いていたので、セリフのあとに曲が挿入されるのかと思っていたら、ほとんどのセリフが歌だったのでびっくりしました。歌に感情がこめられ、あまりにも臨場感があるので映画が終わってから、「歌は吹き替えなのかな?」「それともその場で歌っているの?」「録音してあとで入れたのかな……」と娘と論じ合いました。

それを確かめたくてパンフレットを買うと、その場で俳優さんが歌っていたのでした。そういえば、ジャン・バルジャンが氷点下のフランス南部の山岳地帯で歌う場面では、声が震え、白い息が出ていました。ファンテーヌの歌は涙声でした。

オーデションで俳優を選んだというだけあって、演技も歌もひいでた俳優さんが出演しているのでした。

主人公ジャン・バルジャンを扮するヒュー・ジャックマンは「Who am I?」の曲が一番のお気に入りだそうです。
アイデンティティーの問題を扱っている曲で、この作品のテーマだとパンフレットには書いていました。

たったひとつのパンを盗んだだけで19年間も牢獄に入れられ、仮出所してからは偏見の目で見られ、生きていくことさえ困難な状況でした。
それで本名を偽り、警察に追われながら別人として生きていかなくてはならなかったジャン・バルジャンが、「Who am I?」と訴える場面には胸が痛みました。

また、この作品の背景には、貧しい者はいくら働いても貧しいままであるという社会問題にも迫っています。
しかし、ユーゴ―が本当に書きたかったことは、もっと別のところにあると思います。

刑務所を出たジャン・バルジャンは、仕事にもつけず人としてまともに扱ってもらえないことで心が荒んでいました。ミリエル神父の教会で食事をいただき、宿を貸してもらったのに銀の食器を盗んでしまいます。

神父は、捕えられたジャン・バルジャンに「この食器はあなたにあげたものだ。燭台もあげようと思っていたんだ」と言います。
盗みを働いた自分をかばってくれ、人間として扱ってもらえ、さらに贈り物をくれた神父。その神父の行為に感動し、心を入れ替えて生きるようになります。

これは、キリストの愛に触れて、生き方が変えられた者を示しているのではないでしょうか。キリストの愛を知ると、その人の中で変革が起こるのです。

ジャン・バルジャンは、ミリエル神父にしていただいたことを一生忘れませんでした。その証拠に死ぬ前に銀の皿と燭台を持って教会を訪れています。

マドレーヌという名を変えて市長になったとき、ジャベール警部は疑いを抱きます。ジャベールが「ジャン・バルジャンと名乗る者がつかまって、死刑になるところだ。わたしは勘違いしていた」と言ったとき、ジャン・バルジャンは迷います。

このまま黙っていれば、自分は一生市長として安泰に暮らせます。でもひとりの男が代わりに殺されてしまいます。黙っていることはできないと、裁判所に駆け込み、自分の正体を明かしてしまうのです。
その誠実な生き方も、ミリエル神父の愛の行為に感動しているからできたことだと思います。

ジャベールが学生たちにつかまって、ジャン・バルジャンがその命を好きなようにできる立場にあったとき、ジャン・バルジャンのとった行為はすばらしいものでした。彼を逃がし、その命を助けたのです。

ジャベールは敵に命を助けられたのに結局は自殺してしまいます。ジャベールとジャン・バルジャンは、ユダとペテロのようにも思います。

同じように他者から愛を受けたのに、一方は愛を与える人になり、一方は破滅してしまうのです。その違いは何なのでしょう……。

ジャベールは法律を守っている人が正しい生き方をしている。法を破った人は裁きを受けなければならないという信条で生きていました。でも、法律さえ守っていれば正しい生き方といえるのだろうか……神に喜ばれる生き方といえるのだろうか……もしかして、ジャン・バルジャンの生き方の方が神の前に正しいのではないか……と煩悶しながら耐えがたくなって死を選んだのだろうと想像しました。
ジャベールも新しく生まれ変わることが可能だったのに……と残念です。

原作を読むと、映画では省略されていたところがたくさんあることに気づきます。原作では、ナポレオンのことについてかなり長く書いています。
また、修道院から脱出するとき棺桶に入ったことや、マリウスとコゼットの情感あふれる場面、迷路のようになっている下水道のことなど……ユーゴ―さんの筆力はすごいです。

映画に感動した方でまだ原作を読まれていない方にぜひ原作を読んでいただきたいなあと思いました。


posted by 土筆文香 at 21:26| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月24日

赦すこと、赦されること

昨日の水曜礼拝で「主の祈り」の意味を教えていただきました。1月16日のブログの続きです。

イエス様が弟子たちに教えてくださった祈りは、神様をほめたたえる言葉で始まり、「日ごとの糧を与えてください」と続きます。
この祈りはわかりやすく、具体的ですね。食べ物があることが当たり前のようになっているので、こんな祈りをする必要もないと思われる人がいるかもしれませんが、世界で飢えている人たちのことを思うと、食べ物があることは当たり前ではないですね。
食卓に上っても、自分で食べることができない人がいます。その人には、食べさせてあげる介護者が必要です。精神的な悩みを抱えていて食べられない人、病気で食べられない人もいます。


 わたしは、精神的ショックを受けたとき、食べ物を口に入れてもなかなか呑み込めませんでした。食事がのどに通らないとはこういうことか……と、経験して初めてわかったのでした。

父が末期がんでホスピスに入院していたときのこと。食事が運ばれてきて、父は食べようと箸をつけるのですが、どうしても食べられないのです。それをみて胸が痛みました。食べたくても、食べる気があっても、食べられないこともあるのです。
食事が与えられ、食べることができる幸いを改めて感謝しました。


日ごとの糧というのは、食べ物ともうひとつ、霊の糧という意味もあります。
霊の糧とは、神様の言葉…すなわち聖書のみ言葉です。


聖書が手元にあり、みことばを語ってくれる人がいることのありがたさを覚え、さらに聞く者の耳が開かれて信仰によって受け止めることができるように祈りました。

その次の祈りは、「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました」です。

「負い目」とは、直訳すると「借財」。文語訳では「罪」です。
以下は赦しの5つの条件です。

@赦しは、神がいのちをかけるほどの一大事です。赦さないことは、相手を殺すことです。

A赦しは、本人のためです。
もし、だれかを赦せなければ、その人には生涯喜びがありません。そこから解放してあげたいから赦すようにと神様が言われています。

B赦しは簡単ではありません。
詩編には敵を呪うような言葉がたくさん書かれていますが、ののしる言葉を相手にではなく神に吐き出すことを、神様は許容しています。

C赦しは宣言です。
これからの生き方が、過去に起こったことの意味を変えていきます。
過去に犯してしまった出来事を消すことはできないし、それが残っていく事実は変えられないけれど、その意味が変わることへの期待があります。

D赦しは、神がわたしを赦すときの痛みを味わう恵みの時です。
神がどれほど痛みをもって自分のことを赦してくださったかを考える恵みのときとなります。



赦すことは本当に簡単なことではありません。でも、赦さないでいると、赦されない人ではなく、赦さない人の人格が蝕まれていくような気がします。もし、赦すことができたなら、人知を超えた平安が与えられます。

もし、わたしが誰かを赦せないでいても、神様は「赦しました」と宣言してくださいます。赦されるために人を赦すという条件は必要ありません。わたしは、赦されなければ生きていけない者です。

今までたくさんの人の心を傷つけてしまいました。
過去の記憶をたどると、小学生の時のクラスメイト、Sちゃんにひどいことを言ったことを思い出します。今、どこにいるのかわからないので、あやまることすらできません。Sちゃんは、わたしがつけた傷の痛みでいまだに苦しんでいるのかもしれません。その傷つけたという事実は変えられません。でも、その意味が変わる期待とはどういうことでしょう……。
Sちゃんの中で、傷の痛みがやさしさになって誰かを慰めているかもしれないと期待するのです。

そして、神様はわたしを赦すために愛するひとり子のいのちを差し出してくださいました。この世界にこれ以上の痛みはないでしょう。これだけの痛み受けなければ、わたしの罪は赦されなかったのです。

人のことが赦せないと思うとき、この神様の痛みを思い起こしたいです。
posted by 土筆文香 at 21:02| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月21日

雲の柱が動くとき

昨年12月に日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)のレターに載せるエッセイを募集していました。今年の抱負を400字で書くのです。
年が改まると抱負を聞かれることが多いのですが、できればパスしたい気持ちになります。抱負を掲げても、2、3か月もすると忘れ、年の終わりになって、ああ……年の初めにはこんなこと言ってたんだ……と思い出す始末です。

立派なことを掲げれば掲げるほど、できなかったときの落胆が大きいので、今年は特別大きなことを掲げませんでした。

タイトルは「雲の柱が動くとき」です。文章の内容からすると「雲の柱が留まって」になりますが、もうすぐ動き出す予感がしたので、そういうタイトルになりました。
まずは紹介します。
                  
雲の柱が動くとき


常に何かを書いていた。昨年はOBIの卒業論文、長編児童小説と短編童話数編書いた。
長編を書き終え卒論を提出したら、そのあと書けなくなった。この20年、ひとつの作品を書き上げると、一週間もしないうちに次の作品を書きはじめていたのに……。

創作するとき、ストーリーが結末まで一気に思い浮かび、それから書きはじめる場合と、結末はわからないが、書いているうちに何とかなると思って書きはじめる場合がある。

後者の場合は迷いがあり、たいてい失敗する。未完のまま放り出してしまうこともある。

前者はゴールが決まっているので、迷いなく書ける。神様がストーリーを与えてくださったからだ。

雲の柱が留まっているときは、じっと留まったイスラエルの民のように私も待つことにする。雲の柱が動くとき、新しい物語が生まれる。今年は待つ年になるのか、再スタートの年になるのか、神様だけがご存じである。



雲の柱というのは、旧約聖書の出エジプト記に出てきます。イスラエルの民はエジプトで奴隷のようにこき使われ、虐げられていました。民の叫び声を聞いた神様は、モーセという指導者をたててイスラエルの民をエジプトから脱出させました。

イスラエルの民は、神様が与えてくださるという約束の地を目指して旅をしました。何もない荒野を旅するイスラエルの民が迷わないように、昼は雲の柱、夜は火の柱をたて、柱が動くと民はそのあとについて進み、留まると天幕を張って何日も宿営をしました。そのことを題材として書いたエッセイです。
 
雲の柱まかせだなんて、なんと主体性がない……。自分の意志はないのか? と思われる方もいると思います。自分の意志と力で、努力で勝ち取っていくべきなのにこれじゃ他人任せじゃないか! と言う人もいるでしょう。
 
他人任せといっても、人に任せるわけではありません。任せる方が神様だということに注目してほしいのです。神様に力をいただかなければ何もできないわたしなのです。ですから、神様のGOサインを待っていたのです。
自分の思い、感情の高まりに任せて出発するのではなく、神様の導きを待つというのは、簡単なようで、実は難しいことです。進むより留まる方が忍耐を必要とします。

このエッセイを書いたのは昨年の12月16日です。そして、今年の1月10日ごろ雲の柱が動き出しました。最初は動いたのかどうかわかりませんでした。自分勝手な思い込みということもあるので、すぐには書きはじめませんでした。そうしたら、何度も夢を見ました。書くことを促されている夢でした。

神様は、意外にも早くGOサインを出してくださったのです。新しい作品を書きはじめました。ものすごくスローペースなのですが……神様の栄光をあらわすことができますように。

posted by 土筆文香 at 16:25| 日本クリスチャン・ペンクラブ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月16日

神さまバンザーイ!

雨と雪以外の日は、毎日30分以上は外を歩くことにしています。道路の雪はもうほとんど消えていましたが、今日は歩いて教会にいってきました。

水曜礼拝では、主の祈りについて学んでいます。(1/10のブログの続きです)

イエス様が教えてくださった主の祈りの最初は「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。(マタイ6:9)」です。

まず神様に天の父よと呼びかけて、そのあと神様をほめたたえる言葉が続きます。心に思うままに祈ると、自分の事や願いばかりになってしまいますね。

「御名(みな)があがめられますように」とは、神の御名を尊いものとされますようにという意味で、「御国(みくに)が来ますように」とは、神の支配が完全に顕されるときがきますようにという意味だそうです。

「みこころが天で行われるように地でも行われますように。」は、天使の祈りといわれていて、神の業が天で行われているように地上でも行われますようにという意味です。

「つまり、神さまバンザーイ」と言っているのですと聞いて、嬉しくなりました。

神様に目を向けるということをヨン様とファンのたとえで語られました。おもしろかったので紹介しますね。


冬のソナタがブームになっていたころ、ヨン様が日本へやってきたとき、大勢のファンが空港で待ち構えていました。ほとんどが中年の主婦だったそうですが……。人々はヨン様がいつ訪れるかと待っています。

やってきたときは、みんなヨン様に目を向けて声援を送り、手を振ったりカメラを向けたりしていました。
ファンの人はそれぞれに家族がいて、いろいろな問題を抱えている人もいたでしょう。でもそのときは、それを忘れてヨン様を見つめていました。誰も隣の人のことを気にする人はいませんでした。

こんなふうに、神様に目を向けるとき、色々な問題があっても忘れ、ほかの人のことも気にならず、ただ神様のすばらしさをほめたたえます。神さまを見て人々は輝くのです。
天のすばらしさにまず浸ること。そうでないと、人と人との問題に巻き込まれてしまいます。


天地を造られ、わたしを造られ、わたしの罪のためにひとり子の命を差し出してくださった神様、バンザーイ!
posted by 土筆文香 at 17:26| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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