2013年02月28日

暗やみで叫ぶ

今日も寒いと思い、分厚いジャケットを着てマフラー、耳当て、手袋をはめて出かけました。しばらくして日が照ってくると、汗ばんできました。ようやく春になったんだ!と嬉しくなりました。明日から3月ですね。

水曜礼拝ではイエス様が十字架上で語られた7つの言葉についてメッセージを聞いています。昨日のメッセージはイエス様の口から出た4つ目の言葉「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」でした。この言葉はアラム語で、聖書には「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という訳が書かれています。

これは詩編22編に書かれている言葉で、嘆きと賛美が含まれる22編全体を示しているのだそうです。

「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という言葉だけを読むと、神様に見捨てられたことに対して、いじけている。あるいは抗議しているように受け取れます。でも、決してそういう意味ではなくて「わたしは神に見捨てられている」という宣言なのだと教えていただきました。


イエス様が十字架につけられて後、12時から3時まで全地が暗くなったと書かれています。ですから「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」は暗やみの中で語られました。

暗やみには2つの意味があって、ひとつは神の裁きのあらわれで、神から隔たっていることを意味します。
イエス様は神様から見捨てられました。歴史の中で神から見捨てられたのはイエス様だけです。わたしたちは、どんなに絶望しても、神様に向かって叫ぶとき、神様は聞いてくださいます。でも、この時のイエス様は、叫んでも神様は顔をそむけておられます。完全な絶望です。


イエス様は十字架刑にされて肉体的な苦しみも大きかったことでしょうが、いちばん辛かったことは、神様に見捨てられたことではないでしょうか。

イエス様が神様に見捨てられてくださったおかげで、わたしたちは決して見捨てられない者になったのですね。

また、暗やみのもうひとつの意味を聞いて慰められました。
最初の意味と全く異なり、暗闇は神の臨在を証明するところとして用いられます。出エジプト記20:21には「モーセは、神のおられる暗やみに近づいて行った。」と書かれています。
「わが神、わが神……」と、見捨てられても神の臨在を求めるイエス様の姿。「わたしたちも暗やみの中で『わが神』と叫ぶ経験ができます。」
と牧師先生が言われました。

「わが神」と呼べるのなら、暗やみは、もはやわたしにとって暗やみではなくなります。

「わたしはほんのしばらくの間、あなたを見捨てたが、大きなあわれみをもって、あなたを集める。怒りがあふれて、ほんのしばらく、わたしの顔をあなたから隠したが、永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ。」とあなたを贖う主は仰せられる。(イザヤ54:7-8)」
posted by 土筆文香 at 17:27| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月25日

このわたしはあなたを忘れない

昨日は教会学校の暗唱聖句大会でした。先月末に20の聖句と十戒(これは個人賞)を書いた紙を子どもたちに配って、家でも覚えてくるように言いました。分級では聖句の意味を説明して、みんなで暗唱しました。

当日は1,2年生と3〜6年生に分かれてゲームをしました。

1.2年生はみことば並べゲームと聖句の歌をうたって発表しました。
聖句の歌というのは「こひつじソング」といって、聖書の言葉に曲をつけて歌になったものです。付属幼稚園のオリジナルソングで、娘も幼稚園のときはよく歌っていました。

課題曲を5曲決めてこれまで練習してきました。当日は、グループリーダーが、曲名の書かれたくじを引いて、当たった曲を歌詞を見ずにグループ全員で賛美するのです。判定は小学科担当の牧師先生と校長先生です。

3分ほど練習時間があったので、北風のふく外で(あいている部屋がないので)子どもたちと賛美練習しました。いつも恥ずかしがってほとんど声を出さない子どもも大きな声で歌っていたので、嬉しくなりました。

高学年は、みことば並べゲームとパワーポイントを使った虫食いクイズをしました。
今回は学年ごとに競っています。終わってから得点を計算しました。この一か月間で子どもたちが覚えた聖句の数の平均も点数に加わります。

高学年(3〜6年)では、4年生が一位だったので驚きました。ゲームの得点はそれほどでもなかったのですが、覚えてきた数がどの学年より多かったので一位になりました。

わたしは、その4年生の子どもたちが2年生のとき受け持っていたのですが、そのときの暗唱聖句大会では一年生に負けたほど、やる気のある子どもが少なかったのです。
その子どもたちが生き生きとして意欲的に聖句を覚えてきたことに感激しました。

子どもたちの心に覚えたみことばが留まり、生きる力となりますように。これからも子どもたちがすすんで聖句を覚えますようにと祈りました。

わたしが今回覚えた聖句の中でいちばん心に留まったものを紹介します。

しかし、シオンは言った。「主は私を見捨てた。主は私を忘れた。」と。
「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。」(イザヤ49:14,15 )


母親は自分の子どもを忘れないものです。でも、たとえ母親がわが子のことを忘れ、母親に見捨てられても、神様は決してあなたのことを忘れません。それは、神様があなたを形造ったからです。あなたのことをかけがえのない者だと思っておられるからです。
posted by 土筆文香 at 16:46| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月22日

移ろいゆくもの

昨日、久しぶりに駅前に出かけました。駅前ビルのギャラリーに友人の写真が展示されているというので見に行ったのです。

今月17日に駅前にあったイトーヨーカドーが閉店したことは知っていました。
でも、実際にシャッターが降りているのを見るとショックでした。いつも電車で出かけて戻ると必ず寄って夕飯の材料を買っていました。
子どもたちが小さいときは、よく連れて出かけました。

23年前、土浦に引っ越してきた当初、駅前は賑やかで、駅近くにヨーカドー、西友、そして丸井や小網屋もあったのです。みんな次々と閉店していきました。

ヨーカドーだけは残ると思っていたのに……。数年前にできた郊外型のショッピングセンターに人が流れ、売り上げが落ちてしまったようです。

ヨーカドーだけでなく、駅前の商店街はひっそりとして、シャッターの降りた店が増えてきました。
時代の流れだからしかたないといえばそれまでですが、なんだか寂しいです。

ヨーカドーの入っていたビルの5階で写真展が行われていました。エレベーターに乗ったら、ベビーカーを押した若いお母さんたちが乗ってきて「ヨーカドーなくなって困ったね。不便だね」と言っていました。

友人の写真を見て心があたたかくなりました。
どこにでもある風景、見たことのあるような建物が写っているのですが、そこにドラマを感じ、いろんな空想をして楽しめました。

たとえば猫が歩いている風景。同じような場面はこれからもあるのかもしれませんが、それと全く同じ瞬間は二度とありません。切り取られた時間の切り取られた風景です。

年々、時の流れは速く感じられ、今日が2月22日だと受け入れられないほどです。どんどん失われていく時間……。
でも、写真に撮っておくと、少なくともその時間は留まってくれます。そのときの気持ちも時間と共に流れ去っていきますが、文章に書き表すと確かに残ります。

はっとするほどきれいな夕焼けをみた時、孫と過ごした楽しい時間、食事をしながら主人や娘とたわいのない話をした時間、母と楽しくおしゃべりした時間。信仰の友と聖書を共に読み、篤く語り合った時間。

移ろってはいくけれど、その時間は宝物のように心にしまっておくことができます。
それでも、寂しいと感じるときがあります。

そんなときは、永遠に変わらない神様に目を向けます。
「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。(イザヤ40:8)」


posted by 土筆文香 at 18:09| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月20日

あなたがたのうちひとりが

先日は教会学校小学科でメッセージをさせていただきました。お話と準備をしていて気づかされたことを紹介させていただきます。
新約聖書マタイ26:17-29 ルカ22:7-4から最後の晩餐の箇所です。


イエス様は、大勢の人々に神様のことを伝え、病人を癒したり、奇跡を行ないました。イエス様には12人のお弟子さんがいました。イエス様は弟子たちにご自分が十字架につけられることを話しました。でも、弟子たちにはその意味がわかりませんでした。

「過ぎ越しの祭り」を祝うため、特別な食事をする日がやってきました。
昔、イスラエルの人たちがエジプトで奴隷のようにこき使われていた時、神様がモーセをリーダーとして救い出してくださいました。過ぎ越しの祭りとは、そのことを記念してお祝いする祭りです。

イエス様は弟子のペテロとヨハネに過ぎ越しの食事の準備をするように言われました。
「どこで準備したらいいのですか?」

ふたりの弟子がたずねると、イエスさまは
「町に入ると水瓶を運んでいる男の人と出会うから、その人が入る家までついていきなさい。そして、弟子たちと一緒に食事をする部屋はどこかと先生が言っていますと言いなさい。そうすれば広間に案内してくれるから、そこで準備をしなさい」
と、おっしゃいました。

ペテロとヨハネがその人のあとについていき、イエス様のおっしゃったことを話すと、その人は大きな部屋に案内してくれました。イエス様がおっしゃったとおりだったで、ペテロとヨハネは驚きながらそこで食事の準備をしました。

夕方になってイエス様は12人の弟子たちとテーブルにつき、過ぎ越しの食事が始まりました。これがイエス様と弟子たちとの最後の食事でした。

食事の最中にイエス様がびっくりするようなことを言われました。
「あなたがたのひとりが、わたしを裏切ります」
弟子たちは驚き、そして悲しみました。

「イエス様、まさか私のことではないでしょうね」
「まさか私のことではないでしょうね」
弟子たちは次々とイエス様にたずねました。

ユダはギクッとしました。ユダは実はすでに裏切っていたからです。ユダはイエス様を憎んでいる人たちに会い、イエス様を捕まえる手伝いをすると約束してお金をもらっていたのでした。

なぜそんなことをしたのでしょう。ユダは、イエス様がユダヤの国の王様になってくれると思っていました。ユダヤの国はローマに支配されて、人々は苦しい生活をしていました。イエス様がそれを救って、楽な暮らしができるようにしてくれると思ったのです。でも、イエス様は王様になる準備をなさいません。ユダはイエス様にがっかりして、裏切るようなことをしてしまったのです。

イエス様はユダのしていることをすべてご存知でした。いきなり、『ユダが裏切ります』と言わず、『あなたがたのうちひとりが』と言ったのは、ユダにあやまるチャンスを与えるためでした。


ユダはイエス様から祈って選ばれた弟子でした。会計係をまかされ、ほかの弟子たちからは信頼されていました。何よりイエス様は、このユダを愛していました。

『ユダ、まだ間に合う。今すぐ裏切ることをやめなさい』とイエス様は心の中でユダに語りかけていたのだと思います。
でも、ユダは知らん顔をして、「まさか私のことではないでしょうね」と、ほかの弟子たちと同じ言葉を口から出しました。
イエス様は、がっかりしたでしょう。悲しみに満ちた目でユダを見つめると、「いや。あなたがそうだ」とおっしゃいました。
ユダは死ぬほど驚きましたが、他の弟子たちは気づきませんでした。

ユダはあやまりませんでした。もしこのとき、イエス様にあやまったなら、イエス様はもちろん赦してくださったでしょう。イエス様は、ユダを愛していたので赦したいと思っておられたのです。

その後、イエス様はパンを取り、お祈りをして、弟子たちに配りました。
「食べなさい。これはわたしの体です」

それからぶどう酒の入った盃も取り、感謝の祈りをささげてから言いました。
「飲みなさい、これは、わたしの血です。人々の罪を赦すために流されるものです」
そして、ぶどう酒も弟子たちに分けてくれました。

イエス様は、ご自分の体がパンのように裂かれて赤いぶどう酒のような血が流れること、つまり、これから十字架にかかって死ぬことを伝えました。
そして、十字架にかかって血を流すことは、人々の罪を赦すためだとおっしゃったのです。

イエス様は「これからわたしを覚えてパンを食べ、ぶどう酒をいただくことをしなさい」と言われました。

このことを聖餐式と言います。それで、世界中の教会で聖餐式が行われるようになりました。
この教会でも年に4回、礼拝の中で聖餐式が行われます。イエス様が十字架にかかってわたしたちの罪を赦してくださったことを覚えるため、感謝のしるしとして行われているのです。

暗唱聖句
「これは、わたしの契約の血です、罪を赦すために多くの人のために流されるものです。マタイ26:28」



イエス様はユダをどう見ておられたのでしょうか……。名指しをせず、『この中に裏切る人がいる』と言ったのは、悔い改めのチャンスを与えるためではないかと思いました。聖書では「わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです。(マタイ26:23)」とありますが、それはユダにだけわかる方法で知らせたのだと教案誌には書かれていました。

ユダは罪の告白をせず、あやまりもせず、出て行きました。
その後、自分のしたことを後悔して自殺してしまいます。自殺するぐらいなら、イエス様のもとに行けばよかったのに……と残念に思います。ユダが自殺してしまったことでイエス様はどれだけ心を痛められたことでしょう。
イエス様はユダをも愛していたのですね。  
                  

posted by 土筆文香 at 20:55| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月15日

余すところなく

今日は我が家での家庭集会で9名が参加してくれました。主人が完全に退職したので、我が家で家庭集会を開くのはもう無理かなあ……と思っていました。昨年6月までは週に3日は仕事に出かけていたので、主人が仕事の日に家庭集会を開いていたのです。前回(10月)は主人が実家に行く日に開きました。

主人に話したら、「講座がある日ならいいよ。出かけるから」と言ってくれました。講座とは、県の生涯学習センターで行っている講座のことで、週に2〜3日出ています。でも、講座は午前か午後の2時間ほどです。今日は午後からだったのですが、朝から出かけてくれました。
本当は主人が家庭集会に参加してくれることを願っているのですが(男性の参加者もおられるので)、まずそう言ってもらえたことを感謝しました。


学びは十字架の箇所(マタイ27:33-44)でした。
十字架につけられたイエス様に兵士は苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしました。

そのぶどう酒とは、はりつけの苦痛を和らげるために少量の没薬をぶどう酒にまぜて作った睡眠薬(麻酔薬)のようなもので、これらはエルサレムの金持の婦人たちが提供していたと言われているそうです。

当時は、はりつけにされた犯罪人への温情として十字架につけられたどの人にもに飲ませていたようです。
けれども、イエス様はそれをなめただけで飲もうとはされませんでした。

「イエス様が、兵士が飲ませようとしたぶどう酒をちょっと口をつけただけで飲まなかったのはなぜでしょう?」という質問がありました。

没薬入りのぶどう酒によって苦痛を和らげてもらおうとせずに、わたしたちの罪を赦すために苦痛のすべてを余すところなく味わってくださったイエス様に心打たれました。

「なぜ宗教学者である律法学者や祭司たちがイエス様を十字架につけたのでしょうか?」という質問も出ました。

人を救うはずの人が人を罰し、十字架につけた後もあざけり、ののしっています。十字架の下で兵士たちはイエスの着物をもらうためにくじ引きに興じています。

そんな人々に対してイエスは「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。(ルカ23-34)」と祈ります。
わたしなら、怒って呪いの言葉を吐くでしょう。

祭司長、律法学者たちは、イエスが神の子だとは思っていませんでした。イエスが、自分が神の子だと言ったことに対し、神への冒涜罪だと激しく非難し、憎みました。

「イエス・キリストが誰であるかとみなすことによって、十字架の意味が違ってきます。」と牧師先生が言われました。

かつてわたしは、イエス様が十字架につけられたことは事実だと思うけれど、自分とは関係のないことと思っていました。

でも、19歳で劇団四季のジーザス・クライスト=スーパースターを観たとき、青年イエスの挫折のようなかたちで十字架が描かれていたのを見て、『これは違う』と思ったことを思い出します。なぜ復活まで演じないのかと憤りを覚えました。

まだ、洗礼を受けておらず、教会にも通っていない時期でした。ミッションスクールでキリスト教に少し触れただけだったのに、なぜそのように感じたのか……自分でもわかりません。
その3年後に洗礼を受けたのですから不思議な気がします。

イエス様が十字架にかかってくださらなければ、わたしの罪が赦されることがなかったのだと思うと、感謝の気持ちでいっぱいになりました。
posted by 土筆文香 at 21:20| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。