2013年02月12日

虐げられても生きていてください

このところブログ更新が週2回ほどになっています。書きたいことはあるのですが、PCの前に座る時間が少ししかないのです。まるでモモに出てくる時間泥棒がやってきて時間を盗まれているような気がします。

でも、それは今年になってから新しいことを始めたせいだと気づきました。
2回目のデボーション時に聖書通読をすることにし、30分のウォーキングをし、夜はPCを早めに終了して読書をしています。

主人が毎日家にいるので、自由に使えるのは細切れの時間です。細切れの時間でも充実した宝物のような時間が与えられていることを感謝しています。


ネット読書会「カラマの会」で、今年はチャールズ・ディケンズの「デイヴィッド・コパフィールド」が課題本になりました。ディケンズは、クリスマスキャロルで有名な作家です。昨年はドストエフスキーの「白痴」と「悪霊」で悪戦苦闘しましたが、この本は読みやすくて、どんどん読めてしまいます。

作者の回想録というかたちでデイヴィッドが子どものころの出来事が綴られていますが、児童小説を書いているわたしとしては願ってもない作品です。

この小説には、デイヴィッドが虐待を受けたことについて書かれています。
まさに今書いている小説が虐待を扱っているものなので、不思議な一致に驚いています。一致と言っても、デイヴィッド・コパフィールドは1850年代のイギリスでの出来事。わたしは現代の日本で行われていることをもとに書いているので異なりますが、当時と現代で共通するところがあります。

デイヴィッドは生まれる前に父親を亡くし、母親と乳母ペゴティーと幸せに暮らしていました。でも、母親が再婚した後、義父から虐待を受けるようになります。義父の姉まで一緒に暮らすようになるとは……ちょっと考えられませんが、当時はそういうこともあったのでしょうか……。そしてその姉にも冷たくあしらわれます。

デイヴィッドは義父によって学校に入れられますが、そこでは鞭を持った先生から虐待を受けます。母親は赤ん坊を生んでしばらくして、死んでしまい、デイヴィッドは孤児になってしまうのです。

このように書くと、お涙ちょうだいの小説に思えますが、ユーモアがあり、初恋の場面もあり、わくわくどきどきしながら読める小説です。
 

虐待については、「シーラという子」をはじめ、トリイ・L・ヘイデンの著書をずいぶん読みました。また「“It”と呼ばれた子」を読んで衝撃を受けました。

児童虐待の問題は3つの段階を経て解決に導かれると思います。

ひとつは、親から虐待を受けている場合、子ども自身、自分が虐待を受けている事実がわかっていないことがあります。親を慕う気持ちもあって、虐待を受けていることをほかの人に隠していることがあるのです。自分が不当な扱いを受けていることを知り、声を上げることが解決の第一歩ではないでしょうか。

もうひとつは、親から離れること。物理的にも精神的にもです。当然愛してくれるはずの母親に拒否されるほど非情なことはありません。あるときは溺愛し、あるときは突き離されたら、子どもは混乱に陥ります。一緒に暮らすことで子どもの人格が蝕まれていくことがあるのです。

3つ目は、虐待を受けている子どもだけでなく、いじめじあっている子ども、自殺願望のある子どもに対しても知ってもらいたいことですが、
「自分は誰なのか。何のために生まれて来たのか。」という問いに対する答えを教えることです。

その答えは次のようなことです。

「あなたは、確かに母親のお腹から生まれました。でもそれは、決して偶然ではありません。あなたが生まれることを計画してくださり、お母さんのお腹の中で骨を組み立ててくださった方がおられるのです。
それは、天と地を造ってくださった神様です。あなたは、神様によって造られた者なのです。その神様は、あなたのことをどんな宝石より価値のある者だといってくれています。自分の大事な息子のいのちを差し出してまであなたを愛するといってくださっています。
たとえあなたが何もできなくても、たとえあなたが生まれてこない方がよかったと言われても、あなたの存在そのものを喜んでくださるお方がいるのです。
あなたがこの世界にいることを認め、嬉しいと言ってくださる方がいるのです。どんなに虐げられても生きていてください。あなたが生きていることに大きな意味があるのです」



10日にクリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。ぜひご覧ください。


posted by 土筆文香 at 20:55| その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月08日

父の咎を子に報い?

2/24に教会学校の暗唱聖句大会が行われます。例年の行事になっていますが、わたしもこのときとばかり一生懸命覚えています。子どもたちの記憶力にはとてもかないませんが……。

小学2年生のクラスで、何のために聖書の言葉を覚えるのでしょうか?と問いかけると、「自分の心を見つめるため」と答えた子どもがいたのでびっくりしました。

その通りです。聖書を読んでいると鏡のように自分の心が映されます。自分がどんな人間なのか示されます。
聖書の言葉はすばらしいのですが、それを実行することができない自分を発見します。
それで絶望するのですが、自分の力ではできなくても、神様ができるようにしてくださることを思い出して、希望をいただいています。


聖句を覚えていると、いざというときに役立ちます。わたしは、乳癌で手術台に乗せられたとき、逃げ出してしまいたくなるような恐怖に襲われました。
「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。(イザヤ41:10)」
の聖句で落ち着くことができました。
知人から責めたてられたとき、「平和をつくる者は幸いです。(マタイ5:9)」という聖書の言葉を思い出して、穏やかに対処できました。


今年の暗唱聖句大会の個人賞は十戒を覚えることです。十戒とは、神様がモーセを通してわたしたちにくださった戒めです。
覚えるために何度も読んでいるうちに発見がありました。

「わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、私の命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。(出エジプト20:5-6)という箇所があります。
「父の咎を子に報い三代四代まで及ぼし」に注目すると、キリスト教でも親の咎を子が負うという考え方をするの?という疑問がわいてきます。
でも、聖書は決してそういう考え方はしないのです。

エゼキエル18章20節には「罪を犯した者は、その者が死に、子は父の咎について負いめがなく、父も子の咎について負いめがない。」と書かれています。

それでは、なぜそのように書いてあるのでしょう? 
神様が父親の罪を子や子孫に負わせるというのではなく、罪の影響が三代四代にまで及ぶということではないかと思いました。
また、もうひとつ考えたことがあります。

「恵みを千代にまで施す」を強調したくて書かれているのではないでしょうか。たとえば恵みを十代にまで……と書くなら三代四代との対比になりますが、千代とはかけ離れすぎていて比較対象になりませんね。つまり、神様は「わたしを愛し、わたしの命令を守るなら、あなたにものすごくたくさんの恵みを施し、その恵みは後の世代にまで及ぶのだよ」と言っているのだと思ったのです。

神様はわたしたちに恵みを与えたいと思っておられるのです。恵みとは、神様からの一方的な祝福です。

聖書は一貫して神様はわたしを愛すると言ってくださっています。聖句を覚えながら、その愛を感じています。

posted by 土筆文香 at 17:22| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月04日

恐れに対抗するには・・・・・・

2日(土)は日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)の例会に参加しました。お茶の水で行われるので、前日から出かけて三鷹の実家に泊まりました。

実家の庭に雪がまだ積もっていたのでびっくりしました。母は雪の上を歩いて水やりをしていました。転ぶのではないかと心配でしたが、ずいぶん用心して歩いていました。昨年腕を骨折したことで用心深くなったと自分で言っています。軽い怪我のおかげで大怪我が予防されているのかもしれません。


JCP例会では、参加者ひとりひとりが書くことと読書について今年の抱負を語りました。みなさんの高い志に圧倒されました。
また、K先生によるメッセージは心に残りました。印象に残ったことを紹介させていただきます。

信仰には積極的信仰と、受動的信仰があります。
積極的信仰とは、仕事、勉強、貯金など、人の努力に神の支えがあることです。

受動的信仰には次の3つがあります。

@人間的に見て不可能と思われる危機的状況にあるとき、すべて神様にゆだねる信仰。
A人の力ではあきらかに無理な場合。人の魂の救いやいのちのことを神様におまかせする信仰。
B神から新しい使命を求めるとき、神のみ前にゆだねる信仰。

旧約聖書イザヤ書7章には、アラムと北イスラエルの同盟が南ユダ王国に迫ってきたときのことが書かれています。
「すると、王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺した。(イザヤ7:2)」と書かれているように、アハズ王も国民も動揺します。

そのとき、イザヤは神様の言葉を告げます。
「気をつけて、静かにしていなさい、恐れてはなりません。(イザヤ7:4)」
自分の力では絶対に勝てない。このままだと国が滅ぼされてしまう。そんな危機的状況にあるとき、神様に身をゆだねていれば救われ、力を得るのです。


このメッセージをわたしが小説書くということにあてはめて考えてみました。
何のために書くのかという明確な使命と作品のテーマが与えられるまでは書き出さず、与えられることを求めて祈りつつ待ちました。使命とテーマが与えられたとき、書きはじめました。書きはじめるまでは受動的信仰で、書くということは積極的信仰になるのでしょうか。

一文字も書かずに祈っていて、朝になったら作品が書き上がっていた……なんていうことはありませんね。

書いているときに生じる闘いについては、積極的信仰、受動的信仰のどちらで対処したらいいのでしょうか?
「また、こんなつまらないものを書いて……誰も読んでくれないよ」
「時間の無駄だよ」
という内なる声に恐れをなして、書けなくなってしまうのです。この声に勝つにはどうしたらいいのでしょう……。

「気をつけて、静かにしていなさい、恐れてはなりません。」
このみ言葉をもって対抗します。
posted by 土筆文香 at 13:05| 日本クリスチャン・ペンクラブ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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