2013年02月08日

父の咎を子に報い?

2/24に教会学校の暗唱聖句大会が行われます。例年の行事になっていますが、わたしもこのときとばかり一生懸命覚えています。子どもたちの記憶力にはとてもかないませんが……。

小学2年生のクラスで、何のために聖書の言葉を覚えるのでしょうか?と問いかけると、「自分の心を見つめるため」と答えた子どもがいたのでびっくりしました。

その通りです。聖書を読んでいると鏡のように自分の心が映されます。自分がどんな人間なのか示されます。
聖書の言葉はすばらしいのですが、それを実行することができない自分を発見します。
それで絶望するのですが、自分の力ではできなくても、神様ができるようにしてくださることを思い出して、希望をいただいています。


聖句を覚えていると、いざというときに役立ちます。わたしは、乳癌で手術台に乗せられたとき、逃げ出してしまいたくなるような恐怖に襲われました。
「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。(イザヤ41:10)」
の聖句で落ち着くことができました。
知人から責めたてられたとき、「平和をつくる者は幸いです。(マタイ5:9)」という聖書の言葉を思い出して、穏やかに対処できました。


今年の暗唱聖句大会の個人賞は十戒を覚えることです。十戒とは、神様がモーセを通してわたしたちにくださった戒めです。
覚えるために何度も読んでいるうちに発見がありました。

「わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、私の命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。(出エジプト20:5-6)という箇所があります。
「父の咎を子に報い三代四代まで及ぼし」に注目すると、キリスト教でも親の咎を子が負うという考え方をするの?という疑問がわいてきます。
でも、聖書は決してそういう考え方はしないのです。

エゼキエル18章20節には「罪を犯した者は、その者が死に、子は父の咎について負いめがなく、父も子の咎について負いめがない。」と書かれています。

それでは、なぜそのように書いてあるのでしょう? 
神様が父親の罪を子や子孫に負わせるというのではなく、罪の影響が三代四代にまで及ぶということではないかと思いました。
また、もうひとつ考えたことがあります。

「恵みを千代にまで施す」を強調したくて書かれているのではないでしょうか。たとえば恵みを十代にまで……と書くなら三代四代との対比になりますが、千代とはかけ離れすぎていて比較対象になりませんね。つまり、神様は「わたしを愛し、わたしの命令を守るなら、あなたにものすごくたくさんの恵みを施し、その恵みは後の世代にまで及ぶのだよ」と言っているのだと思ったのです。

神様はわたしたちに恵みを与えたいと思っておられるのです。恵みとは、神様からの一方的な祝福です。

聖書は一貫して神様はわたしを愛すると言ってくださっています。聖句を覚えながら、その愛を感じています。

posted by 土筆文香 at 17:22| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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