2013年02月15日

余すところなく

今日は我が家での家庭集会で9名が参加してくれました。主人が完全に退職したので、我が家で家庭集会を開くのはもう無理かなあ……と思っていました。昨年6月までは週に3日は仕事に出かけていたので、主人が仕事の日に家庭集会を開いていたのです。前回(10月)は主人が実家に行く日に開きました。

主人に話したら、「講座がある日ならいいよ。出かけるから」と言ってくれました。講座とは、県の生涯学習センターで行っている講座のことで、週に2〜3日出ています。でも、講座は午前か午後の2時間ほどです。今日は午後からだったのですが、朝から出かけてくれました。
本当は主人が家庭集会に参加してくれることを願っているのですが(男性の参加者もおられるので)、まずそう言ってもらえたことを感謝しました。


学びは十字架の箇所(マタイ27:33-44)でした。
十字架につけられたイエス様に兵士は苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしました。

そのぶどう酒とは、はりつけの苦痛を和らげるために少量の没薬をぶどう酒にまぜて作った睡眠薬(麻酔薬)のようなもので、これらはエルサレムの金持の婦人たちが提供していたと言われているそうです。

当時は、はりつけにされた犯罪人への温情として十字架につけられたどの人にもに飲ませていたようです。
けれども、イエス様はそれをなめただけで飲もうとはされませんでした。

「イエス様が、兵士が飲ませようとしたぶどう酒をちょっと口をつけただけで飲まなかったのはなぜでしょう?」という質問がありました。

没薬入りのぶどう酒によって苦痛を和らげてもらおうとせずに、わたしたちの罪を赦すために苦痛のすべてを余すところなく味わってくださったイエス様に心打たれました。

「なぜ宗教学者である律法学者や祭司たちがイエス様を十字架につけたのでしょうか?」という質問も出ました。

人を救うはずの人が人を罰し、十字架につけた後もあざけり、ののしっています。十字架の下で兵士たちはイエスの着物をもらうためにくじ引きに興じています。

そんな人々に対してイエスは「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。(ルカ23-34)」と祈ります。
わたしなら、怒って呪いの言葉を吐くでしょう。

祭司長、律法学者たちは、イエスが神の子だとは思っていませんでした。イエスが、自分が神の子だと言ったことに対し、神への冒涜罪だと激しく非難し、憎みました。

「イエス・キリストが誰であるかとみなすことによって、十字架の意味が違ってきます。」と牧師先生が言われました。

かつてわたしは、イエス様が十字架につけられたことは事実だと思うけれど、自分とは関係のないことと思っていました。

でも、19歳で劇団四季のジーザス・クライスト=スーパースターを観たとき、青年イエスの挫折のようなかたちで十字架が描かれていたのを見て、『これは違う』と思ったことを思い出します。なぜ復活まで演じないのかと憤りを覚えました。

まだ、洗礼を受けておらず、教会にも通っていない時期でした。ミッションスクールでキリスト教に少し触れただけだったのに、なぜそのように感じたのか……自分でもわかりません。
その3年後に洗礼を受けたのですから不思議な気がします。

イエス様が十字架にかかってくださらなければ、わたしの罪が赦されることがなかったのだと思うと、感謝の気持ちでいっぱいになりました。
posted by 土筆文香 at 21:20| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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