2013年03月12日

なぜこんなことが起きるのですか?

一昨日は3・11災害記念礼拝でした。
3・11で被害に遭われた方、家族や大切な人を亡くされた方々のことを思って、その方たちのために祈りました。


聖書を気仙地方の方言に訳した『ケセン語訳聖書』の作者、山浦玄嗣さんが災害に遭われた後、東京のジャーナリストから次のような質問を受けたそうです。
「実直で勤勉な東北の人が、なぜこんな目に遭わなければならないのですか?」
この質問を受けて、山浦さんの心は深く傷ついたそうです。
この質問は、「神は、実直に生きている人に対してなんとひどいことをされるのだろう……」という意味だからです。

『なぜと問うことは、意味がありません。なぜと問う必要はないのです。過去にも地震や津波はやってきました。地震や津波が起こるのは当たり前のことで、地球はそのように造られているのです。
なぜと問うのは、神様に愚痴を言っていることです。神に責任転嫁しても、自分がみじめになるだけです。』というようなことが山浦さんの著書に記されているそうです。

「この意地悪な質問をしたジャーナリストは、神を自分の都合の良い道具にしようとしています。創造主である神は、都合の良い道具ではありません。
本当の信仰とは、『神さま、わたしはあなたの道具です。どう生きたらいいのでしょう。 何をすればいいのでしょう。教えてください。』と祈ることです。」

と牧師先生が言われました。

神様を都合の良い道具としようとしていると聞いて、ドキッとしました。
かつてわたしは、長女を出産して間もなく喘息で入院したとき、『なぜこんなことが起きるのですか?』と神様に訴えていました。それは神様に文句を言っていたのです。元気で順調に事が運んでいるときはいいのですが、辛いことが起きるすぐ愚痴や文句を言っていたわたしです。
まず、自分の願いが先にあって、神様はその願いを叶えてくれるものとして祈り、叶えられないと「どうしてですか?」と恨みごとを言っていました。
それは、神様を自分の都合の良い道具にしていることです。
わたしが神の道具となるべきなのでした。


命あるものの地にある限り
わたしは主の御前に歩み続けよう。
わたしは信じる。
「激しい苦しみに襲われている」と言うときも
不安がつのり、人は必ず欺く、と思うときも。
詩編 116: 10 新共同訳聖書



正直で正しい人は災害に遭わず幸せになり、悪い事をした人は災害に遭うという考え方がありますが、そんなことは決してないのです。
2000年前、シロアムの塔が倒れて18人が亡くなるという事故がありました。そのとき、イエス様はシロアムの塔が倒れて死んだ人は、特別罪深かったわけではないと言われました。
どうしてあの人は助かって、この人は助からなかったのか……。その理由はわからないのです。

3/11の朝日新聞天声人語に紹介されていた谷川俊太郎の「そのあと」という詩に心打たれました。
この詩は、希望を見失った人に一筋の光を与えてくれたことでしょう。



 そのあと

そのあとがある
大切なひとを失ったあと
もうあとはないと思ったあと
すべて終わったと知ったあとにも
終わらないそのあとがある

そのあとは一筋に
霧の中へ消えている
そのあとは限りなく
青くひろがっている

そのあとがある
世界に そして
ひとりひとりの心に

posted by 土筆文香 at 17:17| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月09日

たとえ追い出されても(奇跡について5)

急に暖かくなりました。昨日は日中の気温が23度もあったそうです。つい数日前までは真冬のコートを着て、マフラーと手袋、耳宛をして出かけていました。散歩コースの桜川の土手を歩くと、人影はまばらで、枯れたヨシがざわざわと風になびいていました。

昨日の桜川の土手は、保育園の子どもたちが散歩をしていました。2歳児ぐらいでしょうか、みんなより先に行って、また戻ってこようとしています。「走るところぶから、ゆっくりね」と先生に言われているのに、にこにこしながらタッタッターと走っていました。
子どもたちの黄色い帽子がタンポポのように見えました。

今日は午後から子ども家庭集会です。パネルシアターを持って出かけます。


OBI(お茶の水聖書学院)卒業式から一週間たちました。時間がたつにつれ、わたしの人生において学んだこと、卒業したことが大きな意味をもたらすのではないかと思えてきました。

OBIでヨハネの福音書における「奇跡の意義と意味について」という卒業論文を書きました。ヨハネの福音書に書かれている主の奇跡をカルヴァンやBFバックストン、メリルテニイ、CLアレン、CSルイスなど8人の聖書学者たちが、その著書でどのように書いているかを調べて論文を書きました。その論文からブログで紹介させていただいていましたが、それが途切れていました。

今日は、久しぶりに続きを書きます。(前回は1/15 に書きました。)


イエス様が行った奇跡はヨハネの福音書には7つ書かれています。6番目は、生まれつき盲人の奇跡です。(ヨハネ9:1-41)

イエス様はなぜ中途失明の人ではなく、生まれつきの盲人の目を開かれたのでしょうか。
生まれつきの盲人が見えるようになることは、当時あり得ないことでした。 生まれつきの盲人を癒したのは、神にはできないことがないということ、つまり神は全能であるということを人々に示すため、また神の栄光をあらわすためだったという結論になりました。

この盲人の言動をみていると、彼の信仰が成長していることに驚かされます。盲人は最初イエスが誰であるか知りませんでした。目に泥を塗られ、シロアムの池に行って洗うようにイエス様から言われ、彼はその言葉に従いました。すると見えるようになったのです。

ユダヤ人たちは、どうして目が開かれたのか彼に質問しました。この男はイエスが行ったことをそのまま答えました。
彼は、両親に見捨てられ、ユダヤ人から反感を買われても、何度問いかけられても、起こった出来事をありのままに語りました。
彼が自分の身に起こったことをそのまま話すことは、イエスを快く思っていないユダヤ人たちにとって腹立だしいことでした。ユダヤ人のコミュニティーの中から追い出される危険がありました。それでも彼は恐れませんでした。

ヨハネ9:33では、「もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです」と言い、イエスが神から出ているお方だと告白しています。

彼はユダヤ人から追い出されてしまいます、イエスは彼を見つけ出してご自分が人の子であると語りかけ、彼は信仰告白をしました。

彼は他の人が何と言おうと、またユダヤ人から反感を買われようと、事実を曲げずに語りました。それは、イエスによって目が開かれた喜びに満たされていたことと、イエスを救い主と信じていたからでしょう。彼の信仰を見習いたいです。

また、R.V.G.タスカーは「この奇跡を行ったのは、人々が霊的に盲目であることに気付かせるため」と書いています。『わたしは見える』と思っていることが高慢なのだと思います。このことも心に留めたいです。

posted by 土筆文香 at 12:02| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月05日

決して見捨てられない訳


2月28日に書いた「暗やみで叫ぶ」の記事を読まれた方が「イエス様が見捨てられたおかげで私達が見捨てられなくなった……」とは、どういう意味ですか? と質問をくださいました。

神様がイエス様を見捨てられたとはどういうことでしょうか。

以前、聖書学の学びの場で、「愛のお方と言われている神様が、自分の子どもを見捨てるはずがない。」と言われたクリスチャンの方がいました。

そう思える気持ちはわかります。けれども、神様は確かにひとり子のイエスをお見捨てになったのです。

それではなぜ、見捨てられたのでしょう……。
十字架の肉体的苦痛は想像を絶するものですが、イエス様にとっていちばん辛いことは、父なる神様との断絶でしょう。

どんなに苦しくても神様が共にいてくださるなら安心していられますよね。うめいたり叫んだりしたとき、すぐに答えがなくてもその声を聞いて下さっている方がおられると思うと慰められますね。

でも、人間は、アダムとエバが罪を犯して以来、神様とは断絶状態になっていたのです。神様は正しいお方なので、罪に対して何の罰も与えずに「まあいいよ」と言って受け入れることができません。

「すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、(ローマ3:23)」と聖書に書かれている通り、罪のない人はいないので、神様との間に隔たりができてしまったのです。
罪の結果、人々はその魂が滅んでしまうことになりました。

でも、神様はご自分が作られた人間をとても愛しておられるので、人の魂が滅びることに対して非常に心を痛められました。それで人に罰を与えるのではなく、人の代わりにご自分のひとり子に罰を与えることにしました。

身代わりになる者は、罪のない者でなくてはなりません。イエス様は神様の子どもなので、罪がありませんでした。
神様は愛する我が子を十字架につけ、見捨てるために地上におくってくださったのです。
イエス様は、十字架の苦しみ、見捨てられた苦しみ、すべての苦しみを背負って死んでくださいました。わたしたちのために……。

愛する我が子を見捨てなければならなかった神様のお気持ちはどうだったのでしょう。心が引き裂かれる思いだったのでは……と思うと涙がこぼれます。映画パッションでは、最後に天から水滴が落ちてくる場面がありました。神様の涙を表しているようで、印象的でした。

イエス様が見捨てられてくださったので、人類の代わりにイエス様に罰を与えるという神様のわざが完了したのです。

イエス様が見捨てられたおかげで見捨てられないですむというのは、イエス様を信じる者が、たとえどんな状態になっても神様に見捨てられることは決してないということです。

イエス様がしてくださったことによって、わたしたちは罪を犯しても神様から罰を受けなくてすむようになったのです。神様と断絶してしまうことがなくなったのです。イエス様の十字架は、過去、現在、未来の人々、全人類に有効なのです。


乳がんになってから常に頭のどこかにあるものは、いつか再発転移して末期癌状態になるのではないかという恐れです。でも、体がどんな状態になっても神様から見捨てられることはないのだから大丈夫。常にわたしに目を注いで下さる神様がおられるから大丈夫と思えるのです。
「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。(ヘブル13:5)」
と、神様は約束して下さっています
posted by 土筆文香 at 17:16| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月03日

卒業しました

昨日は、お茶の水聖書学院の卒業式でした。記念品目録を読むという大役を与えられ、感謝会では大勢の方々の前で食前の祈りさせていただくことになって、とても緊張しました。

通信で2006年から学びはじめたので、卒業まで7年もかかりました。

本格的に聖書を学びたいという気持ちの根底には、乳癌になって、いつ召されるかわからない者だと自覚したことにあります。今、元気で自由な時間が与えられているのなら、その時間を神様のことをもっと知るために使わせてもらおうと思ったのです。

最初は聴講生でした。卒業することなどまったく考えておらず、単位も気にしないでゆっくりと学んでいました。

1週間で90分のDVDを2回に分けて視聴していました。1課目で12枚のDVDと3〜4のレポート課題があります。ひとつのレポートを書くのに1か月かかっていましたから、1課目に約半年かけていたわけです。1課目で2単位いただけるので、5年たったときには20単位になっていました。

2010年10月に、学院の20周年記念会に出席しました。そのとき『なんて素晴らしいところで学ばせて頂いているんだろう。ぜひ卒業したい』という思いが与えられました。そして2011年4月に聖書科の本科(通信)に編入しました。

編入したとたん、卒業研究の説明があって、卒業するためには論文を書かなければならないことを初めて知りました。単位が満たされればいいというわけではなかったのです。また、通信生はサマースクーリングに2回以上参加しなければなりません。

それから2年。DVD授業をこれまでよりピッチを上げて受け、サマースクーリングに参加し、同時に卒論に取り組みました。
大変というより、楽しくて夢中になりました。卒業時には必要単位30単位を越え、34単位を取得していました。

よく通信で卒業できたねと感心されますが、一生懸命頑張ったという気はしませんでした。
難しすぎることやつまらないことを通信で勉強したら、きっと途中で挫折していたでしょう。でも、学ぶたびに神様の愛がますます感じられ、もっと学びたいと思うのです。

今まで、高慢にも聖書のことは少しは知っていると思っていたわたしでしたが、いかに知らない者だったか気づかされました。学びを一応終了した今でも知らないことがまだまだたくさんあります。

聖書は汲んでも汲んでも尽きない泉のように、求める者には恵みを溢れさせてくださいます。聖書学院の学びは、神様の愛と恵みをあふれさせる場となりました。

7年の間に通信で指導してくださったお2人の先生が天国へ召されました。とても悲しいことでしたが、M先生とN先生のスピリットがDVDを通してしっかりと伝わり、わたしの中で生きています。

ここまで続けられたのは、素晴らしい先生方と背後で祈ってくださった方々、そして神様です。3K(感謝・感激・感動)を味わっています。
posted by 土筆文香 at 21:00| その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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