2013年03月16日

行先がわからなくても


昨日はOさん宅での家庭集会で、アブラム(後にアブラハムと改名)の旅立ちの箇所を学びました。アブラムが神様から「わたしの示す地にいきなさい」と言われ、その通りに出発しました。

アブラムひとりではなく、妻のサライ(のちにサラと改名)と父のテラ、甥のロト、しもべたち、家畜などと一緒です。
住み慣れた町を離れるのは大変だったでしょうし、家族の反対もあったかもしれません。サライは反対しなかったのでしょうか? サライの性格を考えると、黙って従ったとは思えないのですが……。

また、そのときのアブラムの年齢は75歳だったそうです。でも、アブラムは175歳で死を迎えるので、現在の男性の平均寿命(80歳)に換算すると、34-35歳ということになると聞いて、案外若いんだと思いました。

アブラムが町を出ていくことを告げたときの、周囲の長老たちとアブラムの会話を想像してイギリスのF・Bマイヤーが書いた文章を紹介します。

「アブラム、ここには何でもあるのに、これ以上いったい何を望むというのかね」
「私は神様のみこころを行う以外、何も望みません」
「大人げないことを言うんじゃないよ。様々な危険に目を留めてごらん。あんたはまず砂漠を横切るんだよ(中略)それに強盗の群れに襲われたら、どううるつもりかね」
「しかし、私に行けとお命じになるお方は、いっさいの責任をおとりになるに違いありません。この方は必ず私たちの面倒を見てくださいます」


その後長老に行先だけでも知らせるように言われますが。行先はわからないけれども、一日に一日分の旅行をすればその分だけ行先がはっきりしてくる。と言って、アブラムは旅立ちます。


アブラムの神様に対する信頼はすごいですね。行先さえはっきりしていないのに旅立つように言われて、道中の危険、年老いた父のことなどたくさんの心配事があっても、神さまが一切の責任を取ってくださる、必ず面倒を見てくださると信じて疑わずに出発したのですから。

アブラムは行く先々で祭壇を築いて礼拝しました。アブラムは素朴に神様に感謝し、主のために礼拝をささげたのです。

そのアブラムの姿から「礼拝は人の生活とともにある」ことを示されました。この世の旅路と共にいつもささげていくのが礼拝なのだと教えられました。

人生を旅するときも、どこへ向かっているのか行先がわからないことがあります。予期せぬ出来事が起こって、これからどうなっていくんだろう……と不安な気持ちでいっぱいになることがあります。でも、日々ここまで守られたことを主に感謝し、一日に一日分の歩みをしていけばいいのだな。行先も心配事もすべて神様にお任せして歩いていけばいいのだなと思いました。
posted by 土筆文香 at 17:31| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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