2013年06月28日

ぼくは誰なの


アイデンティティーをテーマとした童話を書いています。主人公の気持ちで詩を書きました。



             ぼくは誰なの
ぼくは誰なの
町中にあふれている大勢の人
ぼくは、その中のひとり
ぼくがいなくなっても世界が変わるわけじゃない

ぼくは誰なの
空気よめないヤツ
間の悪いヤツ
仲間からは、そんなふうに言われてる

ぼくは誰なの
役に立たないヤツ
いないほうがいいヤツ
消えられるものなら消えてしまいたい

ぼくは誰なの
君は君だよ
誰が何と言おうとも
君がいなくちゃ困るんだ

君は君だよ
世界でたったひとりの
大切な、大切な、君だよ

posted by 土筆文香 at 21:12| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月25日

Who am I ?

先日、CS教師研修会でアイデンティティーの問題についての話を聞きました。

多くの人はアイデンティティーよりハウツーを重要視します。
どうすれば成績が上がるか。どうすれば効率よく働けるか。どうすればよい人間関係を築けるか、どうすれば健康で長生きできるか……。
ハウツー本が売れていますね。役に立つ部分もあるかもしれません。でも、本を読んだ人がその通り実行したら、悩みは解決するのでしょうか? そもそもその通り実行することが難しいような気がします。

就職試験に落ち続けて人格を否定されたように思い、傷ついて鬱病になってしまった人の話を聞きました。アイデンティティーが確立されていれば、それほど傷つくこともなかったのに……と残念に思いました。

ではアイデンティティーとは何でしょう。
アイデンティティーには、存在(自分はどういう人間か)と行為(自分に何ができるか)
という二つの側面があります。

アイデンティティーを確立するには、まず自分がどれだけ価値のある者かを知ることが大切です。
人は誰でも、神様によって造られ、愛されている存在です。
どれくらい愛されているかというと、神様はあなたのことを救うためにご自分のひとり子のいのちを差し出してくださいました。それほどに愛されている存在、価値ある存在なのです。
このことがしっかりわかっていれば、誰に何を言われようとも動揺することがありません。
たとえ世界中の人に嫌われても、あなたは愛されている存在なのです。なくてはならない存在なのです。

「自分に何ができるか」については、すぐにはわからないでしょう。でも、自分がどういう存在なのかを知っていれば、なすべきことがわかってきます。

レ・ミゼラブルのジャン・バルジャンが「Who am I」と叫んでいます。牢獄では番号で呼ばれ、牢獄を出たら犯罪人としてのレッテルを貼られてバカにされ、それを隠して市長になったら市長さんと尊敬され……。立場や置かれた場所で違った扱いを受けるので、本来の自分は誰なんだろう? と思うのは当然です。         

ジャン・バルジャンの場合は、盗みを働いたのに赦され、愛されたことを思い出すことによって、アイデンティティーが確立されたのです。それで、なすべきことができたのではないでしょうか。
posted by 土筆文香 at 17:48| その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月18日

21世紀のアダムとエバに

16日は第2礼拝が親子礼拝でした。年に一度、1,2歳クラスから小学生までが親御さんと共に礼拝堂で礼拝を捧げます。
そのあと小学生は体育館に移動して親子運動会をしました。
わたしは受付だったので、残念ながら親子礼拝のメッセージを聞くことができませんでしたが、第1礼拝で聞いたメッセージの一部を紹介させていただきます。

旧約聖書創世記3章8〜10節からです。
アダムとエバが神様から禁じられた木の実をとって食べた後、ふたりは神様から身を隠しました。そのとき神様は「あなたはどこにいるのか」と言われました。

神様がアダムがどこにいるのかわからなくて聞いたのではありません。神様は全知全能なのでアダムがどこにいるかご存じのはずですから。
「あなたは、どこにいるのか」は、『あなたがたは、自分たちがどこにいるのかわかっているのか』という意味です。

アダムは神の声にこたえて「裸なので恐れて隠れていました」と自分の内的状況を話します。アダムは神様の声を無視せずに正直に答えました。そのことは褒められることです。でも、彼は神の懐に走って行きませんでした。

もし、アダムが自分の罪を認めて神様の懐に飛びこんであやまったなら、神様は赦してくださったでしょう。神様はそうしたかったのだと思います。ところがアダムは、自分の非を認めたくなくて虚栄を張り、神さまとの関係を断ち切ってしまったのです。

神様は『あなたはどこにいるのか。わたしのもとにかえってきなさい』
と、21世紀のアダムとエバ(わたしたち)にも語りかけておられるのです。
 
神様から隠れ、離れているとき恐れを感じるのだそうです。
わたしもときどき神様から隠れようとすることがあります。神様がいつも共にいてくださると頭ではわかっているのに、不安でたまらなくなるときがあります。
そんなとき神様はわたしに「あなたは、どこにいるのか」と言っておられるのでしょうね。


posted by 土筆文香 at 17:38| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月04日

どんなに非難されても忘れられる

クリスチャンの詩人、八木重吉の詩に「願」というのがあります

  願
私は
基督の奇跡をみんな詩にうたいたい
マグダラのマリアが
貴い油を彼の足にぬったことをうたいたい
基督の一生を力一杯詩にうたいたい
そして
私の詩がいけないとけなされても
一人でも多く基督について考える人が出来たら
私のよろこびはどんなだろう


わたしは、この詩に心打たれました。人からけなされても自分の書いた詩を読んで一人でも多くキリストについて考える人ができたら嬉しいと書いています。

実際、けなした人がいたのかもしれません。
でも、重吉は人からの評価を全く気にしていなかったのです。けなされても心騒がせることがなかったのでしょう。
また、自分の詩が認められたいとか、評価を得たいという気持ちではなく、キリストを伝えたい一心で書いていたのです。


先日の礼拝メッセージでは、パウロのことが語られましたが、パウロとも通じるところがあります。
パウロは使徒の働き20:19で「数々の試練の中で主に仕えました」と書いています。試練とは、人から誤解されたり、さまざまな批判の声が聞こえたり、反対されたりしたということが含まれていいます。

パウロはどんな声が聞こえてきても、益になることなら少しもためらわず伝えたのです。
「人にではなく、主(キリスト)に仕えていると、どんなに人からひどいことを言われても、非難されても、辛いことがあっても忘れられる。」と牧師先生が言われました。

人からの評価は絶対ではありません。たとえばあなたが「お前は役立たずの人間だ」と言われたとします。あなたが、その人にとって役に立たなかったとしても、ほかの誰かにとっては役立つ存在に違いありません。あなたが気づかないだけで、すでに役に立っているかもしれません。

あなたが「お前なんかいなくなればいい」と言われたとしても、言葉通りに受け取ってはいけません。
あなたにいてほしい。何もできなくても、あなたがいるだけでうれしい」とイエス・キリストは言ってくださいます。

パウロは人からどんなに非難されても「神に対する悔い改めと、イエスに対する信仰」を語ることをやめませんでした。このことは、神様からの全人類へのメッセージだからです。

八木重吉は結核を患い29歳で召されるまで、人からけなされても、キリストを示す詩を書き続けました。

posted by 土筆文香 at 17:16| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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