2013年08月19日

優先順位

昨日の礼拝は講壇交換でF教会の牧師K先生がお話ししてくださいました。
K先生は少年院の教誨師をされています。

少年院に入所している子どもたちの大半が親に愛されずに育ったそうです。愛された経験のない子どもは、愛することができないのです。

「Itと呼ばれた子」のデイヴ・ベルザーは、母親にオーブンで焼かれそうになるほどのひどい虐待を受けます。父親からも愛されません。でも、彼は乳幼児の一時期、母親に愛されて育った記憶があるので、愛することができる者になります。

でも、生まれた時から愛されなかった子どもはどうなるのでしょう……。

親が愛していなくても「神様は愛しているよ」と伝えたいとK先生が言われましたが、わたしも全く同じ思いです。
少年院の子どもたちも神に出会い、神の愛のメッセージを受け止めるとき新しく生きられるのです。

神さまが人を造られた目的は、神を愛するためです。
神を愛するとはどういうことでしょう。礼拝することが神を愛することですが、日曜に教会の礼拝に出席することだけが礼拝ではありません。どの場所にあっても、霊とまことによって礼拝することができます。

旧約聖書に登場するイサクは、人が生きるのに大切なこと……優先順位を教えてくれています。

「イサクはそこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。彼はそこに天幕を張り、イサクのしもべらは、そこに井戸を掘った。(創世記26:25)」と聖書に書かれています。

祭壇を築き、主の御名によって祈るとは、神様を礼拝することです。天幕とは住まいのことですが、天幕を張るとは、神の愛を中心とした家庭を築くことです。井戸を掘るとは仕事をすることです。


この順序が大切で、このように生きるとき、神様からの祝福があふれるのですね。

posted by 土筆文香 at 12:00| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月17日

感謝・感激・感動

昨日は、息子の運転する車でヒックンを連れて千葉県の主人の実家へいってきました。
ヒックンを千葉へ連れて行ったのは約3年ぶりです。義母はひ孫に会ってとても喜んでいました。

今日はお茶の水聖書学院の同窓会報に寄稿した文章を紹介します。以前もブログで似たような内容の文章をいくつか書いていましたが、それらをまとめたようなものになっています。

DVDから流れてきた神の愛


 わたしは、子どもたちに神様の愛を伝えるために童話や児童小説を書いています。書き始めて15年近くたったとき、行き詰まりと迷いを感じ、何をすべきなのか祈り求めていました。

すると、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」のみ言葉が示されました。書く技術を身につけることより、神様のことを第一に求めるべきだと思いました。でも、具体的にどうすればよいのか思いあぐねていたとき、お茶の水聖書学院で通信の学びがあることを教えていただきました。聖書を学ぶことが今のわたしに必要なのだと思い、早速申し込みました。

最初は通信の聴講生でした。卒業のことなどまったく考えておらず、単位も気にしないでDVDを視聴しながらゆっくり学んでいました。

旧約聖書にイエス様を示す言葉や出来事がたくさん書かれていることにまず驚きました。申命記はモーセの遺言だと聞いて、一字一句もおろそかにしないで読まなくてはと思いました。
旧約聖書は難しく、読んでいても意味のわからない箇所だらけでしが、学んでいくうちに書かれている事柄の背後にある神様の愛に気づかされ、胸が篤くなりました。

旧約聖書の学びが終わると、新約聖書、聖書重要教理を受講しました。レポートは、最初要領がわからなかったので、一か月近くかけて書いていました。自信がなく、不合格になるのではないかと恐る恐る提出すると、講師の先生から丁寧なコメントをいただきました。半年で一課目というゆっくりペースでしたが、5年たったときは20単位になっていました。

卒業を意識したのはOBI20周年記念会に出席させていただいたときでした。OBIの歴史を知り、どんな思いで学院が始められたのかお聞きしたとき、卒業したいという思いが与えられました。

2011年4月に聖書科の本科(通信)に編入しました。編入したとたん、卒業研究の説明があり、卒業するためには論文を書かなければならないことを知りました。

卒業研究のために資料をTCUから取り寄せていただいたり、ルーテル学院大学の図書室に通ったりしました。同時にDVD授業をこれまでよりピッチを上げて受けました。
大変というより、楽しくて夢中になりました。2年後には必要単位を越え、論文も無事書き上げ、今年の3月卒業式を迎えることができました。

 よく通信で卒業できたねと感心されますが、一生懸命頑張ったという気はしませんでした。難しすぎることやつまらないことを通信で勉強したら、きっと途中で挫折していたでしょう。でも、学ぶたびに神様の愛がますます感じられ、もっと学びたいと思うのです。
 神様の愛を伝えようと童話を書いていたのですが、わたし自身が神様の愛をどれだけ知らない者であったか気づかされました。OBIの学びを通して流れてきた神様の愛で心をいっぱいにして新たに書いていきたいと思います。

 残念に思ったことは、7年の間に通信で指導してくださったお2人の先生が天国へ召されたことです。悲しいことでしたが、M先生とN先生のスピリットがDVDを通してしっかりと伝わり、わたしの中で生きています。ここまで続けられたのは、素晴らしい先生方と背後で祈ってくださった方々、そして神様のおかげです。3K(感謝・感激・感動)を味わっています。

posted by 土筆文香 at 17:16| その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月09日

武と愛の人 新島八重の生涯

NHK大河ドラマ「八重の桜」を毎週見ています。テレビはほとんど見ないわたしですが、これだけは最終回まで欠かさず見たいと思っています。
会津戦争の時、女性ながらスペンサー銃を持って戦った八重が、のちに新島襄と結婚してクリスチャンになります。キリストを信じるときの八重の心の動きを知りたいと思いました。

日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)の先輩が書かれた「武と愛の人 新島八重の生涯」(新堀邦司著:里文出版)の感想文を読んだ後、この本を読みたいとずっと思っていました。
図書館になかったのでリクエストすると、取り寄せてくださり、ようやく手にすることができました。

6月にJCP合宿で群馬県安中を訪れたとき、新島襄記念会堂で「テレビで放映されているドラマは実際と異なることが多い」という話を聞き、どの部分が本当でどの部分が違うのか知りたいと思いました。
幕末のまだ男尊女卑の精神が根強く残っている時代に女性が銃を持って戦ったのは本当なのか……と思いましたが、それは事実だったようです。
尚之助が八重を離縁した理由は、推測の域を出ないようです。

新島襄と結婚するいきさつについては、まだドラマでは放映されていませんが、この本では、八重自身が書き残したものから、出会いの時のエピソードが紹介されています。

暑い日に八重が井戸の上に板戸を渡してその上で裁縫をしていたそうです。そのとき新島襄がやってきて彼女を見、驚きました。板戸が折れたら井戸の中に落ちてしまうほど危険だったからです。それなのに平然と裁縫をしている大坦な姿に惹かれたのかもしれません。槇村正直が薦めたこともあって、結婚に至ったと書かれています。ドラマではどのように脚色されるか楽しみです。

八重は、兄覚馬のすすめで結婚前から聖書の勉強をしていました。まだキリスト教が解禁される前でした。
八重がキリストをどのようにして信じるようになったか……その内面的変化について詳しくは書かれていません。

戊辰戦争による魂の傷は癒されたのでしょうか。
父や弟の命を奪った薩長への憎しみの問題はどうなったのでしょうか。
会津藩武士の子弟として厳しい精神教育を受けてきた八重です。自分は清く正しく生きていたと思っていたのに、人はみな罪人であるという聖書の言葉を読んでどう思ったのでしょう。葛藤があったことが想像できます。

襄は八重の気持ちをよく理解して魂のケアに心を砕き、励まし続けました。
罪のことは、八重が神と人との問題だと気づいたとき、暗雲が晴れたように思ったと記されています。

襄は、八重のことを「ハンサムウーマン」と称しています。それは「美しい行いをする人」という意味です。ふたりの結婚生活は幸せだったようです。

八重は牧師夫人となったのですが、最初は、薩長出身の生徒は夕食に招かなかったそうです。何年もたってから招くようになったというのは、長い時間をかけて傷がいやされ、憎しみが愛へと変えられていったことを意味すると思います。

最愛の夫、襄は、40代半ばで病に倒れ、召されてしまいます。その後八重は再婚もせずに86歳まで生きました。日清戦争が始まったとき、八重は日赤京都支部戦時救護員として看護婦を率いて負傷兵の看護にあったっています。50歳になろうとしていた八重は若い看護婦に負けないくらい元気に働いたそうです。さらに日露戦争のときは60歳になっていたのですが、やはり看護活動を行っています。
会津戦争で傷つき、死んでいった人たちのことを思うと、いてもたってもいられなかったそうです。

周囲の人の言葉に惑わされず、古い慣習も打ち砕いていく強い女性ですが、同時にきめこまやかな心と信仰による愛をもちあわせた八重の魅力が伝わってきました。


日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)のHP更新しました。ここをクリックしてご覧ください。

posted by 土筆文香 at 15:19| 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月06日

非常識な恵み

教会で3日に結婚式があり、今日はお葬式が執り行われました。
教会のH先生のお父様が86歳で召されたのです。お父様は、今年の1月に洗礼を受けたばかりでした。

葬儀のメッセージはマタイ20:1-15ぶどう園の農夫のたとえからでした。紹介させていただきます。
聖書に書かれていることを要約すると、次のようになります。


ぶどう園の主人が、労務者を雇うために出かけました。1日1デナリ(7千円〜1万円)の約束で、早朝に出かけて何人か雇い、9時ごろにも出かけて雇い、12時と3時と5時ごろにも出かけて雇いました。

仕事の終わる6時になったとき、遅く来た人から賃金を払っていきました。みんな1デナリずつです。早朝から働いていた人たちは主人に文句を言いました。最後に来た人は、1時間しか働かなかったのに同じ1デナリなのかと不満を漏らします。

主人は最初に1デナリと約束し、それを守ったのだから不当なことはしていないと主張し、「最後の人にもあなたと同じだけ上げたいのです」と言います。


このたとえは、主人が神様で労務者は私たちのことをさし示しています。
生まれた時から人との比較の中で育つと、このような主人のやり方を非常識だと思います。
早朝から来て働いた人というのは、幼いころからキリストを信じた人。夕方に来た人は晩年に信じた人です。

神様はいつ信じるようになったかおかまいなしに気前よく皆に1デナリ与えてくださいます。
1デナリとは、罪の赦しのことで、信じる者には誰にでも与えられるものです。
罪の大きさには関係なく、どんな罪も赦されます。

また、1デナリとは、死の恐怖に打ち勝つという意味もあります。
聖書には「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。(ヨハネ11:25)」と書かれています。
非常識なまでな神の大きな恵みが与えられるのです。


わたしは最初ぶどう園の農夫のたとえを読んだとき、ぶどう園の主人は不公平だと思いました。もしわたしが9時ごろから働いた人だとしたら、主人が5時から働いた人にも1デナリ渡しているのをみて文句を言ったでしょう。
でも5時から働いた人は、5時まで仕事がなく、それまで不安だったのです。今日の食事や寝る場所すらなかったのかもしれません。雇ってもらえてどれだけ嬉しかったでしょう。
長い時間不安を抱えていた人を思いやって主人は同じ恵みをくださいました。
人との比較ではなく、神様が自分にしてくださったことを思うと、このたとえ話の言おうとしていることがわかってきます。非常識なまでな神の大きな恵みに感謝しました。

H先生のお父様は晩年にキリストを信じました。でも信じてから召されるまで、とても平安だったそうです。死の恐怖から解放されていたからでしょう。
地上での別れはつらいですが、確かに言えることは、キリストを信じて召された人は必ず天国にいくということです。
お母様はじめ、ご遺族の方々に平安がありますように。
posted by 土筆文香 at 16:02| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月01日

努力が報われなくても

どんな人でも避けられないことがあります。それは日々死に近づいていることです。どんなに財産を持っていても、どんなに社会的地位が高くても老いと死は避けることができません。

中学生のとき、わたしは考えました。どんなに素晴らしい功績を残しても人間はみな死んでしまうのだ。むなしい。どうせ何もなくなってしまうのなら、何のために生きるのだろう。何のために努力するのだろうと。

その疑問を父親にぶつけると、そんなこと考えないで勉強しなさいと言われました。そのようなことを考えてもいけないのかな。そんなふうに思っている人はいないのかなと長い間疑問に思っていました。

聖書は死について真正面から語っています。死を忌み嫌ったり、避けたりする必要がないからです。イエス・キリストは死に打ち勝ったのですから。
「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。(Tコリント15:56-57)」

確かに肉体は日々衰え、坂道を転げ落ちるように老化していきます。(最近、私自身の体で実感しています)そして待っているものは、肉体の死です。
どんなにすばらしい賞をいただいたとしても、死後何十年もたてば忘れられてしまうのです。時の流れは止めることができません。死が人生の終わりなら、なんとむなしいのでしょうか。

また現実は、どんなにまじめにやっても、立派な業績を残しても、罠にはめられたり、妬まれ、ひどい目に遭ったりすることがあります。
聖書は、そのような現実に生きざるを得ない人間だからこそ、神との対話、神との関係を持ち続けることこそ救いなのだと語っています。

神との関係を持ち続けることによって、
「失敗しない人生ではなく、失敗しても生きられる人生」、
「努力が報われる人生ではなく、努力が報われなくても生きられる人生」
「苦しみがなくならなくても、問題が解決しなくても、生き通す力が与えられる人生」
をおくることができます
と牧師先生が言われました。

失敗しないこと、努力が報われること、苦しみがなくなること、問題が解決することが人生の目的だとしたら、むなしさから解放されません。
自分の願いが叶えられなくても、何をするべきなのか神様に問いかけつつ、この世界を支配してくださっている神様を信頼して、神様のみこころを第一に生きていくとき、むなしさから解放されるように思います。

時を超えた神様の大きなご計画の中に小さなわたしが組み込まれていると思うと、たとえ不本意なことが起きても平安でいられるのです。苦しみが与えられても生き通せるのです。

先週と今週の礼拝メッセージを聞いて思ったことを書きました。
posted by 土筆文香 at 11:00| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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