2013年08月01日

努力が報われなくても

どんな人でも避けられないことがあります。それは日々死に近づいていることです。どんなに財産を持っていても、どんなに社会的地位が高くても老いと死は避けることができません。

中学生のとき、わたしは考えました。どんなに素晴らしい功績を残しても人間はみな死んでしまうのだ。むなしい。どうせ何もなくなってしまうのなら、何のために生きるのだろう。何のために努力するのだろうと。

その疑問を父親にぶつけると、そんなこと考えないで勉強しなさいと言われました。そのようなことを考えてもいけないのかな。そんなふうに思っている人はいないのかなと長い間疑問に思っていました。

聖書は死について真正面から語っています。死を忌み嫌ったり、避けたりする必要がないからです。イエス・キリストは死に打ち勝ったのですから。
「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。(Tコリント15:56-57)」

確かに肉体は日々衰え、坂道を転げ落ちるように老化していきます。(最近、私自身の体で実感しています)そして待っているものは、肉体の死です。
どんなにすばらしい賞をいただいたとしても、死後何十年もたてば忘れられてしまうのです。時の流れは止めることができません。死が人生の終わりなら、なんとむなしいのでしょうか。

また現実は、どんなにまじめにやっても、立派な業績を残しても、罠にはめられたり、妬まれ、ひどい目に遭ったりすることがあります。
聖書は、そのような現実に生きざるを得ない人間だからこそ、神との対話、神との関係を持ち続けることこそ救いなのだと語っています。

神との関係を持ち続けることによって、
「失敗しない人生ではなく、失敗しても生きられる人生」、
「努力が報われる人生ではなく、努力が報われなくても生きられる人生」
「苦しみがなくならなくても、問題が解決しなくても、生き通す力が与えられる人生」
をおくることができます
と牧師先生が言われました。

失敗しないこと、努力が報われること、苦しみがなくなること、問題が解決することが人生の目的だとしたら、むなしさから解放されません。
自分の願いが叶えられなくても、何をするべきなのか神様に問いかけつつ、この世界を支配してくださっている神様を信頼して、神様のみこころを第一に生きていくとき、むなしさから解放されるように思います。

時を超えた神様の大きなご計画の中に小さなわたしが組み込まれていると思うと、たとえ不本意なことが起きても平安でいられるのです。苦しみが与えられても生き通せるのです。

先週と今週の礼拝メッセージを聞いて思ったことを書きました。
posted by 土筆文香 at 11:00| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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