2013年10月29日

足りないと思っていたけれど……

体力がなくて疲れやすいわたしは、多くのことができません。
それは子どものころからなのですが、試験勉強のために少し遅くまで起きていただけで翌日熱を出して学校を休む羽目になってしまうのでした。

午前中何かをしたら午後は休み、一日用事で出かけたら、次の日は半日横になっています。
2日続けて出かけたら、次の日は一日寝ています。昼間たくさん寝ても、夜は早く寝ないともちません。この間は4日間忙しい日が続いたので、回復するまで随分かかってしまいました。
そういうわけで、書きたいことはたくさんあったのですが、ブログ更新も滞っていました。

体力がないことを嘆いていた時期もありましたが、体力がないからこそできることもあると気づいてから、嘆くのをやめました。
でも、もう少し体力があったらなあ……と思っていたときに日曜日の聖餐礼拝で、主の食卓というメッセージをいただきました。メッセージを聞いて感じたことを書かせていただきますね。


新約聖書には、食事に関することが多く書かれています。
イエス様が最初の奇跡を行ったのは、カナという町で結婚式に出席されているときでした。ぶどう酒がなくなって、イエス様が水をぶどう酒に代えるという奇跡を起こされましたが、そのとき、食卓にはぶどう酒だけでなく、ご馳走が並んでいたことでしょう。

イエス様が取税人レビを弟子にしたときは、レビの家に招かれて共に食事をしています。
「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです(マルコ2:17)」と、大切なことを語られたのは食事の席でのことでした。

女の子を生き返らせる奇跡を行ったとき、イエス様は女の子に食事をさせるようにおっしゃっています。

イエス様が大勢の群衆に語っていると、夕方になってしまいました。そのとき弟子たちは、人々を解散させてそれぞれが食べ物を買いに行かせてくださいと言いましたが、イエス様は、5つのパンと2匹の魚を増やし、5千人もの人たちが満腹する食べ物を与えてくださいました。

「食事は肉体の養いだけではなく、全人格的養いのために必要です」と牧師先生が言われました。
 
復活されたイエス様が、ガリラヤ湖のほとりで弟子たちの前に姿をみせたときも食事とつながっていました。
そのとき弟子たちはすでに復活のイエス様に2度ほど出会っていました。

弟子たちはガリラヤ湖に行って、もとの漁師の仕事をしていました。ペテロはどんな気持ちだったのでしょう。主の復活は喜んでいたはずですが、心の中では主を裏切ってしまったという、うしろめたい思いでいっぱいだったような気がします。
ペテロはイエス様が捕えられたとき、恐ろしくてイエス様のことを知らないと3度も言ってしまったのでした。そのとき鶏が鳴き、イエス様の言葉を思い出して激しく泣いたのでしたね。

魚が一匹もとれなくてがっかりしている弟子たちに、復活のイエス様が岸に立って言われました。「子どもたちよ。食べるものがありませんね」そして、船の右側に網を降ろすように言われ、弟子たちがその通りにするとたくさんの魚が網にかかったのです。

弟子たちは、最初に弟子として召されたときと同じような奇跡が起きたので、きっとそのときのことを思い出したでしょう。イエス様は弟子たちに新たに使命を与え、再び召してくださったのですね。

イエス様は、弟子たちにお説教するのではなく、炭火と魚とパンで朝食の準備をされました。

イエス様は、あり余るほど豊かな食べ物を与えてくださいました。(魚は大きなもので、数匹で十分でしたが153匹も与えられたのです)

「わたしたちも、よみがえりの主により、ふるまわれ、養われている」
と聞いて、食べ物だけでなく、必要なものはすべて豊かに与えられていることに気づきました。
足りないと思っていた体力もじゅうぶん与えられていたのでした。
posted by 土筆文香 at 21:18| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月23日

ネット依存症の詩

先週の金曜日は、お茶の水で行われた日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)の詩歌の会へいってきました。

JCPは奇数月に例会があり、偶数月は童話エッセイの会と詩歌の会の小グル―プがあります。いつもは童話エッセイの会へ出ているのですが、今回は童話エッセイがお休みだったので、初めて詩歌の会に参加させていただきました。

詩をみていただくのは初めてで、少し緊張しました。
今回は「隣の扉を開けてみよう・未知の扉を開いてみよう」というテーマの自由詩だったので、ネット依存症の若者の気持ちを詩にあらわしてみました。

詩の出来不出来は別として、「自分の気持ちを詩に書くのではなく、ほかの人の気持ちを詩にあらわすのは新鮮です」と言われて公開することにしました。
ネット依存症のことは以前にも書いています。また今朝、NHKのあさイチで取り上げられていました。

スマホの中から  

もう やめたい
でも やめられない
ネットを切ったら ひとりぼっち
悪口書かれるかもしれない
だから切れない どうしても

もう つかれた
ゆっくり やすみたい
何をしているんだろう
何の意味があるんだろう
別のことをしたいのに

アホ ボケ シネ
簡単に書いてくる
自分だって書くけれど
ほんとは傷ついている
なんのために生きているの

外に出たい
こんなところにいたくない
閉じ込められたスマホの中
もがいていたら扉をみつけた
もう少し、あと少しで扉が開く

扉を開けたら
どっと押し寄せてきた現実
映し出された醜い自分の姿
思わず目をそむけて
扉の陰にすわりこむ

こちらにおいで
そのままのあなたでいいから
扉の向こうから差し出された手
夢中でしがみついたら
光の中に躍り出ていた


posted by 土筆文香 at 22:00| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月21日

見えるものにではなく

先週の木曜日から昨日まで、忙しくしていました。今日は疲れて一日中頭がぼおっとしています。
色々なことがあり、そのときそのときで神様に助けられ、たくさんの恵みをいただきました。


17日(木)は我が家での家庭集会でした。
学びの内容をブログに書いてほしいと友人から言われたので、テキストを読み返し、思い出しながら書いてみますね。

創世記13章1〜13節からの学びです。

神様に示された約束の地を目指して旅をしているアブラハムは、エジプトからネゲブに上り、その後、以前祭壇を築いた場所、べテルとアイの間に行きました。甥のロトも一緒でした。

そのときアブラハムは「非常に富んでいた」と書かれています。財産がたくさんあったということです。財産というのは金や銀、そして家畜も含まれます。

アブラハムとロトは持ち物が多かったため、アブラハムの家畜の牧者とロトの家畜の牧者との間に争いが起きるようになりました。
そのとき、アブラハムはロトに別れようと提案します。
そしてロトに肥沃なヨルダンの低地と、荒地、どちらがよいか選ばせるのです。
ロトは、肥沃な土地を選びました。

教会学校でこの箇所のお話をするときは、年若いロトに良い地を譲ったアブラハムのことをほめ、謙遜の美徳を教えたりするのですが、聖書はそういう教えを書いているのではないと教えていただきました。
謙遜の美徳を語るのであれば、なにも聖書から学ばなくてもいいわけです。

アブラハムがロトに別れ話をしたのは、べテルとアイの間に行って、礼拝したあとでした。アブラハムは、本当はロトのことをとても愛しているので、別れたくなかったのです。でも、ロトとの価値観の違いなどがあって、別れることが最善だと示されたので決断したそうです。

ロトは見た目で豊かな土地の方を選びましたが、アブラハムはロトがそちらを選ぶことは最初からわかっていたというのです。ロトは、神様からの約束を大切にするのではなく、自分の生活の豊かさを求める生き方をしていました。

一方アブラハムは、神様の約束を大切にしていました。ロトが選ばなかった方の荒れた土地が神様からの約束の地、カナンだったのです。

アブラハムは、恐れからエジプトでは自分の妻サラを妹と偽ってしまう過ちを犯しましたが、まず礼拝し神様に立ち返っています。

わたしは何度も何度も失敗しますが、そのたびに神様の前に行って立ち返ることが大切なのですね。
大切なことは、失敗をしないことではなく、神様に立ち返ることだと教えられました。

右を選ぶか左を選ぶかと常に選択を迫られているわたしたちです。
物質的な豊かさ、生活の安定、家族や自分の健康などを目的にして生きるのか、神様を喜ぶことを人生の目的にするのか問いかけられている気がしました。

「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。(Uコリント4:18)」

posted by 土筆文香 at 20:48| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月16日

やなせたかしさんのこと

10年に一度という大型台風が通り過ぎて行きました。こちら(茨城県土浦市)は風は強かったですが、雨はそれほどではありませんでした。


アンパンマンの作者、やなせたかしさんが亡くなられたニュースを聞いて、ショックを受けています。
わたしは、アンパンマンが大好きで、まだアニメ化される前から絵本を読み、レコード(CDではなく)を聞いていました。結婚前、幼稚園に勤めているころはアンパンマンの絵本を子ども達に読み聞かせていました。

そのときのアンパンマンは、顔を食べさせると、半分もなくなってしまう絵でした。それが残酷だという人もいたそうですが、わたしはそのようには感じませんでした。

結婚して子どもが生まれたころはアニメ化されていたので、子どもたちと一緒にアンパンマンのTVを見ていました。

やなせさんは、あまり表には出していませんでしたが、クリスチャンです。「人を助けるのには自己犠牲が伴う。」と言っておられましたが、自分の顔を食べさせてしまうアンパンマンは、キリストをあらわしているのだと思います。

わたしが大好きなアンパンマンの歌、『勇気の花が開くとき』の歌詞を紹介します。この歌で力を与えられました。
「ぼく」を神と入れ替えて読んでみるとジーンときます。


勇気の花が開くとき  作詞:やなせたかし 作曲:いずみたく

どこか知らない 遠いところで
だれかが泣いている 声がきこえる
泣かないで くじけないで
ぼくがここにいるよ
勇気の花がひらくとき
ぼくが空をとんでいくから
きっと君を助けるから

風がうずまく 深い谷間で
ぼくを呼んでいる 声がきこえる
おそれるな がんばるんだ
夜はすぐにあける
勇気の花がひらくとき
ぼくが空をとんでいくから
きっと君を助けるから

赤く乾いた 砂漠の中で
助けを呼んでいる 声がきこえる
たちあがあれ 元気をだせ
オアシスはちかいぞ
勇気の花がひらくとき
ぼくが空をとんでいくから
きっと君を助けるから


posted by 土筆文香 at 21:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月14日

幼子のように

教会学校小学科の2年生クラスで「お祈りしてほしいこと」を書かせました。
「スポーツ選手になれるように」「サッカーの試合に勝てるように」など自分の願いを書いている子どもが多かったです。

その中で「罪をおかさないように」と書いている子どもがいて、驚きました。
罪がどういうことか知っていて、罪を犯さないように祈って欲しいというのです。なんとすばらしい信仰なのでしょう。
罪という字はちゃんと漢字で書かれていました。

「あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。」という詩編119:11の言葉を思い出しました。


礼拝メッセージは、マルコ10:13-16より語られました。イエス様のもとに行こうとしている幼子(おさなご)を弟子たちが止めたとき、イエス様が憤ったという箇所です。

聖書には「さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。(マルコ10:13)」と書かれています。

イエス様が子どもたちの頭の上に手を置いて、祝福を祈ってもらおうとしているのだと思っていますから、そこに『さわっていただこうとして』と書かれていることを読み落としていました。

メッセージを聞いて、さわるという行為に注目しました。すべての動物はさわってもらうのが好きなのだそうです。
確かにそうですね。人慣れしない獣でも、親に舐めてもらうことを喜びます。

親が子どもの頭をなで、抱きしめるだけで、子どもは、言葉がなくても愛されていることを知ります。

子どもたちは、イエス様が大好きです。せっかくやってきたのに弟子たちはなぜ止めたのでしょう。

イエス様が休む暇がないほど多忙なので、子どもになどかまっている暇はないんだと思ったのかもしれません。
当時、子どもは今の時代よりずっと軽く扱われていました。


子どもたちを追い返してしまおうとする弟子たちに向かってイエス様は憤って言われます。
「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです(マルコ10:14)」

わたしのもとに来させなさいとは、『いつも近くにおらせなさい』という意味だそうです。

「そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。(10:16)」

この箇所を読むと胸が熱くなります。
自然にわたしは幼子になっています。


飼い犬が、24時間主人の一挙一動を見ているように、神様も24時間私たちを見ていてくださると聞いて、嬉しくなりました。

神様はうっかり目を離したり、まどろんだりすることがないのです。
「(主は)寝ずの番をされた(出エジプト12:42)」

posted by 土筆文香 at 16:39| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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