2013年10月10日

「助けてください」と言ったら

教会学校小学科のクリスマス会でわたしの童話を劇にして子どもたちが演じることになりました。クリスマス向けに書いた童話ではないのですが、夏休みの特別プログラムのとき、ジョイクラブ(教会学校が終わってからお昼までの時間に行われている小学生の活動)に参加しない子どもたちに向けて創作童話の紙芝居をしました。

それを見た低学年主任の先生が、クリスマス会にぜひと思われたそうです。
クリスマス会のミーティングでそのことを聞き、嬉しいと同時に大変なことになったと思いました。

脚本化するのはわたしです。童話を書くよりずっと大変な作業です。
低学年の40人の子どもたちが、ひとりひとこと以上セリフを言うように作ろうとしています。
演出も考えながら何度も何度も書き直しています。

劇として成功させることが目的ではありません。それを演じる子どもたちが、イエス様のことを感謝して、心が喜びでいっぱいになって輝くこと。子どもたちの演技を見た人たちがイエス様を心から喜ぶようになることが目的です。

けれども脚本を書くのは、わたしの能力の超えたことです。
「神様、助けてください。力を与えてください。」と必死に祈っています。


ちょうどそのような折、詩編91篇からの礼拝メッセージを聞いて励まされました。
「助けてください」と神様に祈るとき、必ず神様は助けてくださるという確信を与えられたのです。
目に見えた変化が起こらなくても神様はすでに助けのみ手を差し伸べてくださっていることを感じました。

詩編91編の一部を抜粋します。


(91:1-2)
いと高き方の隠れ場に住む者は、
全能者の陰に宿る。
私は主に申し上げよう。
「わが避けどころ、わがとりで、
私の信頼するわが神」と。

(91:4)
主はご自分の羽で、あなたをおおわれる。
あなたは、その翼の下に身を避ける。
主の真実は、大盾であり、とりでである

(91:14)
彼が私を愛しているから、
わたしは彼を助け出そう。
彼がわたしの名を知っているから、
わたしは彼を高く上げよう。


この詩編の筆者は、最初は自分のことを「私」と書いていますが、3節以降「あなた」になり、14節では「彼」になります。
「神を呼び求めていると視点が変化する」と牧師先生が言われましたが、どういう意味なのかなあと思いました。

以下は、自分の考えなので、間違っているかもしれません。

私→あなた→彼

となっているのは、自分がだんだん小さくなってきているようです。
神に祈っているうち信頼が深まり、「私」という自我が砕かれていったのでは……と思います。最初は自分の視点から書いていたのですが、二人称の視点、三人称の視点から書くように変化しています。
14節以降は「わたし」すなわち神さまが主語になっています。

*新改訳聖書では、ひらかなの『わたし』は、旧約では、神様に対して。新約では、イエスに対して用いられています。漢字の『私』は人に用いられています。

書いているうちに神様のみ心が示され、神に導かれて書いたのではないかなと想像しました。



(91:15)
彼が、わたしを呼び求めれば、
わたしは、彼に答えよう。
わたしは苦しみのときに彼とともにいて、
彼を救い彼に誉を与えよう。
わたしは、彼を長いのちで満ち足らせ、
わたしの救いを彼に見せよう。


呼び求めれば答えてくださる神様に感謝!
posted by 土筆文香 at 16:28| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月03日

10年目の検査

昨日、病院へ行ってきました。1週間前、乳癌の術後検査を受け、その結果を聞きに行ったのです。

主治医が転任され、別の先生に診てもらうことになりました。3人目の医師です。

昨年の6月に検査を受けて以来の外科です。年に1度の検査でよくなったので、本当は今年の6月に受けなくてはならなかったのですが、延ばして秋に検査を受け、それで最終にしようと勝手に決めていました。

今年の12月で術後10年になるのです。

「あっという間でしょう」と人から言われますが、わたしとしては、ようやくという気持ちです。とにかくこれで結果が良ければ、もう検査は受けなくていいのだと、思っていました。

診察室に入って最初に先生が口を開くまでの時間(1分弱だと思います)がとほうもなく長く感じらます。そのときの緊張は何年たっても変わりません。

「異常なしですね」と言われてほっと胸をなでおろしました。

「それでは一年後にまた来てください」と言われたので、「12月で10年になるのですけれど……」と言うと、「胃癌などは5年たてばほとんど再発はありませんが、あなたの場合は10年たっても再発転移の可能性があるので、まだまだ検査を受けないとだめです」と言われました。

「いつまでですか?」と尋ねると、答えは「きりがない」でした。
つまり、わたしの乳癌のタイプは何年たっても再発転移することがあり、完治はないというのです。

10年目の検査の後に再発した方の話を聞いていますし、20年は気をつけないといけないことも知っていたのですが、「きりがない」と聞いてがっかりしました。

喘息も完治はないと言われていて3か月に1度内科に通っていますが、乳癌からも卒業できないと知って気が重くなりました。そのうえ、通院している病院がもうすぐ自転車では行けない遠方に移転してしまうのです。

完治しないということは、いつも死を意識しながら生きざるを得ないということです。それは神様の配剤だと思いました。
いま、置かれた場所は不安定で、決して心地よい場所とはいえません。だからこそ、神さまをしっかり見つめて生きるようになれる場所です。

もう再発転移することはないと言われたら、安心しきって神様から目をそらしてしまうかもしれません。

まず、いま異常がなかったことを感謝します。先のことはわかりません。先のことは神様にお任せして、心配しないことにします。
限られた時間を生かされていることを意識しながら使命を果たしていければと思っています。


posted by 土筆文香 at 17:47| 乳がん | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月01日

わたしはある

27日から都内の実家に行って1泊してきました。今回は娘と一緒に行きました。娘は草取りの手伝い。わたしは料理と掃除の手伝いをしてきました。

母はこの夏の暑さで食欲が落ち、4sも体重が減ったと言っていました。わたしでもきつかったのですから、84歳の母にはさぞかし辛い暑さだったことでしょう。でもなんとか体を壊さず元気でいてくれることを感謝しました。


28日は日本クリスチャン・ペンクラブ9月例会でお茶の水までいってきました。
礼拝であかしをさせていただくことになっていたので、何日も前からずっと緊張していました。タイトルは「最近の私とあかし文章道」です。
原稿を書いて覚え始めてからも迷いがあって、内容はこれでいいのかなと不安に思っていました。

以前文章に書いて発表したことがある内容が含まれているので、覚えている人にとっては退屈なのではないかなどと思ったり……あかし文章を書くことにおいてベテランの先輩方の前で語る資格があるのだろうか……とまったく自信がなかったのです。

ちょうど当日の朝に読んだデボーション冊子、ディリ―ブレッド(RBC)に書かれている言葉に励まされました。
世界的に有名な伝道者ビリー・グラハム師がケンブリッチ大学で講演するとき、自分は洗練された思想家たちに語る資格はないと感じ、分不相応でいたらない者だと思ったというのです。

ビリー・グラハム先生でさえそのような恐れを抱かれたエピソードを読んで励まされました。
モーセも神様から命じられたことに対して「私はいったい何者なのでしょう」と言って躊躇しています。
冊子の文章を紹介します。

【「〇〇をしなさい」と神に示されたとき、自分の実力を疑問視するかもしれませんが、それでも、神は信頼できるお方です。私たちの欠点は、神の完全さと比べるなら取るに足りません。「私は何者……」と感じるとき、神の御名は「わたしはある」であることを思い出しましょう。】

神様はその日の朝、わたしに最もふさわしい文章を備えてくださったのです。目には見えないけれど確かに「ある」お方。その存在をはっきりと感じ、共にいてくださることを実感しながら語らせていただきました。


posted by 土筆文香 at 11:38| 日本クリスチャン・ペンクラブ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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