2013年12月28日

最高の人生

ヒックンが冬休みの宿題がたくさん持ってやってきました。宿題は年内に終わるような量ではありません。一年生からたいへんです。

今日は主人が映画に連れて行っています。
ヒックンは2日間ひとりで泊まって、30日にはヒックンのパパママもきて、一緒に年を越します。
ブログ書きの時間はほとんどありません。
今年一年も守られたことを感謝します。今年のわたしの一字「覆」から詩を書きました。
    
キリストに覆われたなら

キリストを着て
キリストに包まれ
キリストに覆われたなら
何もいらない

キリストに癒され
キリストに繕われ
キリストと共に歩めれば
最高の人生


着るというのは信じるという意味です。
みなさまも来年、最高の一年をおくることができますようにお祈りします

日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。「怒」というテーマで書いたわたしのエッセイを掲載されています。ぜひごらんください。
posted by 土筆文香 at 12:59| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月19日

今年の一字

今年を漢字一字であらわすと、わたしは「覆」です。

児童文学者協会の支部長になり、苦手な司会をすることになって、あたふた。言わなくていいことを言い、言わなければならないことを失念しました。その他の場面でも失敗が多かったです。夜、失敗を思い返しては、胃が痛んでいました。

そのうち神様が覆ってくださっているから大丈夫という思いに至り、平安を得られて、ぐっすり眠れました。覆われなければどうなっていたことか……。

「おおう」という言葉を聖書を読んで見つけた翌日、に礼拝メッセ―ジで「覆う」が出てきたときは、まさに私に与えられた言葉だと思いました。
「聖霊があなたがたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます」(ルカ1:35)

調べてみると、聖書には「おおう」という言葉が実にたくさん使われています。(聖書検索をすると「おおう」は旧、新約聖書全体で52節に含まれていました。(「おおわれて」、「おおって」などの言葉をくわえると、その倍ぐらいになります)

口語訳聖書には「神の霊が水のおもてを覆っていた(創世記1:2)」と書かれています。

世界が造られる前は、混沌としていました。闇が大いなる水の上にあり、その水の上をおおっていたのが神の霊だというのです。
もし、神の霊がなかったら、永遠に闇の世界が続き、生命の誕生もなかったのです。

ホセア書に書かれている「おおう」は、罪赦されるという意味で用いられています。
ホセアの妻、ゴメルは不誠実で、夫のある身なのに姦淫の罪を犯しました。ホセアは彼女を赦し、家に迎え入れるのです。

「また、彼女の裸をおおうためのわたしの羊毛と麻とをはぎ取ろう。(ホセア2:9)」
神様は不誠実を誠実でおおう方です。

「そむきの罪をおおう者は、愛を追い求める者。」(箴言17:9)
「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」 (Tペテロ4:8)


おおうは、守るという意味でも用いられています。
「主はあなたを守る方。主はあなたの右の手をおおう陰。」(詩編121:5)

「見よ。神はご自分の光をその上にまき散らし、また、海の底をおおう。」(ヨブ36:30)

「主は地をおおう天蓋の上に住まわれる。」(イザヤ40:22)


神様は、地上に住むわたしたちをおおってくださるのですね。

ヨナ書に書かれているのは、文字通りおおいかぶせるという意味ですが、ヨナの不機嫌を直そうとして、とうごまでおおってくださる神様の優しさを感じます。

「神である主は一本のとうごまを備え、それをヨナの上をおおうように生えさせ、彼の頭の上の陰として、ヨナの不きげんを直そうとされた。」(ヨナ4:6)

パウロが書いた言葉を紹介します。
「しかし、主は、「私の恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」(Uコリント12:9)
わたしもキリストにおおわれています。

昨日Nさん宅に伺って聖書輪読会をしました。民数記を読んでいるのですが、このとき、も「おおう」に出会いました。

「幕屋をたてた日、雲があかしの天幕である幕屋をおおった。それは、夕方には幕屋の上にあって火のようなものになり、朝まであった。(民数記9:15)」

エジプトを出たイスラエルの民が、昼は雲の柱、夜は火の柱に導かれて約束の地をめざし旅をしました。
導いた雲は、子ども聖書物語にあるような縦に細長い雲を思い浮かべていましたが、幕屋全体をおおうほど幅広いものだったのかもしれませんね。見てみたかった!
posted by 土筆文香 at 20:30| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月16日

そのときが近づいているのかも


先週、84歳の母が泊まりに来ました。母は年に一度12月に来て一泊します。わたしが年賀状をパソコンで作るので、図柄を選ぶために来るのです。

一人暮らしなのだから、1週間ぐらい泊まって行ってもいいのに、1泊以上したことがありません。朝8時半ごろ三鷹から中央線快速に乗り、ずっと立っていたと言うので驚きました。

とても混んでいて優先席の方に行くこともできなかったそうです。総武線各駅に乗れば座れたのに……。土浦に着いたのは11時半でした。お土産にと重いのに大きなリンゴ2個も入れたリュックを背負ってきました。

年賀状は気に入った図柄があったので、すぐに決まってあっという間に印刷できてしまいました。

久しぶりにゆっくり話しました。信仰の話はなかなかできないでいましたが、日曜日に教会学校で紙芝居を読むことになっていたので、「練習するから聞いて」と言って、母の前で読みました。

わたしが書いたクリスマス童話です。紙芝居の後、クリスマスの本当の意味を母に伝えられました。イエス様が神様のひとり子で、わたしたちの罪を赦すためにきてくださったことを話しました。母は頷きながら聞いていました。

翌日は一緒に買い物をし、レストランにいって昼食を共にしました。帰るとき、電車の中で読む本を貸してほしいというので、5冊の本を並べて選んでもらいました。

母が選んだのは三浦綾子のエッセイ「遺された言葉」でした。
今まで三浦綾子の本を何冊も貸したのですが、心に響いたようすはありませんでした。
でも今回、「遺された言葉」を少し読んで「これいいね」と言ったのです。

信じるのに時があるのかもしれません。そのときが近づいているのかもしれないと思って、母の救いのために祈りました。

posted by 土筆文香 at 21:36| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月10日

暗闇から光

8日からアドベント2週目に入りました。
11月30日に一番近い日曜日から、クリスマス前の期間を「アドベント(待降節)」といいます。「アドベント」とは「到来」という意味で、救い主(イエス・キリスト)の到来を心待ちにする時期です。

今年は教会学校クリスマスの準備に忙しく、怒涛のような日曜日を過ごしていたので、静かにクリスマスを待ち望むという気持ちになれませんでした。
来週の日曜にリハーサル、再来週が本番ですが、準備はひと段落しました。


礼拝メッセージでは、クリスマスのイメージについて語られました。
同じ出来事に直面しても、その人の抱くイメージによって全く違った行動をする場合があります。
救い主誕生を知ったときのヘロデと博士たちの反応は正反対でした。

ヘロデは救い主が生まれたと聞いて恐れ、戸惑いました。博士たちに「幼子を拝むから」と言っておきながら、拝まず、殺そうとしました。ヘロデの心はキリストから(霊的距離において)遠く離れていました。

一方、博士たちは救い主誕生を確信していたので、喜びにあふれ、救い主のところへ行って拝みました。
大切なことは、救い主を待ち望む心なのですね。

もともと人間は、神様のかたち(イメージ)として創られました。でも、罪を犯したため、ゆがめられて正しい神のイメージを持つことができなくなりました。

神様は、ご自分の正しいイメージとしてイエス様を地上におくってくださいました。
神の正しいイメージとして、キリストが生まれてくださったのです。

「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。(ピリピ2:6-7)」

「クリスマスの贈り物は、失われた神のかたちの回復です」と牧師先生が言われました。


わたしのクリスマスのイメージは、夜→暗闇→光→救い主誕生→希望 です。
キラキラしたイルミネーションや飾りやケーキはありません。悲しみ、苦しみに覆われている暗闇の中、ひとりぼっちでうめいている自分がいます。

苦しみが頂点に達したとき、思いもかけぬところから光がやってきます。その光は、イエス・キリストの光、希望の光です。
苦しみがなくなるわけではありません。でも、ちっとも悲しくないのです。ひとりぼっちじゃなくなったから。一緒に苦しんでくださるお方が来られたから。

静かにクリスマスを待ち望みます。

乳癌手術を受けてから、まる10年たちました。

posted by 土筆文香 at 16:53| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月06日

言葉で傷つけ、傷ついたとき

ようやく声がもとにもどり、元気快復してきました。
昨日は家庭集会のクリスマス会が教会で行われ、すばらしいオルガン演奏を聴いてきました。
今日は朝からカップケーキ作りです。30個焼きました。明日の子ども家庭集会クリスマス会で子どもたちがデコレーションをするのです。どんなふうにデコレーションされるのか楽しみです。
クリスチャン・ペンクラブのニュースレタークリスマス号に掲載されたクリスマスエッセイを紹介します。

神の作品


「あなたの言葉でひどく傷ついた!」
怒りを込めた友人の声が受話器から流れてきたとき、一瞬頭が真っ白になりました。
 
どのような言葉が彼女を傷つけたのかわかりませんでしたが、すぐあやまりました。あやまっても彼女の怒りはおさまりませんでした。
わたしはショックでほとんど食事がとれないほどに落ち込んでしまいました。 

どんな言葉であっても、わたしの口から出た言葉が人を傷つけてしまったのです。わたしは加害者です。これからも口を開けば誰かを傷つけてしまうかもしれません。家から出ず、誰とも話さない方がいいのでは……とまで思い詰めてしまいました。

それでも数日後、日曜日を迎えたのでわたしは重い心で教会へ行きました。その日の午後は、クリスマス会で教会学校の教師たちが演じるペープサートの指導をすることになっていました。

初めてわたしの書いた童話が教会で用いられ、嬉しくて練習も楽しみにしていたのですが、こんな精神状態でできるのだろうか……と案じ、必死に祈りながら指導をしました。
自分がどのように振る舞ったかわかりませんが、落ち込んでいることを誰にも悟られることなくできたのは、神様が力を与えてくださったからです。

その後、彼女が傷ついたのは、わたしの言葉を誤解して受け止めたからだということがわかりました。彼女とは和解しましたが、傷心のままクリスマスを迎えました。
今から考えると、なぜあんなに落ち込んでしまったのだろうと思います。わたしに責められるところがあったとしても、人格を否定されたわけではなかったのです。

わたしの中にアイデンティティーが確立されていなかったので、責められたとき、全人格を否定されたように思い、過剰に反応してしまったのです。
クリスマス会のペープサートは大成功でした。弱くて力がなくて、自分は誰の役にも立たないと思っていたロバのロム。それは自分自身がモデルでした。ロムは赤ちゃんイエス様に出会って力が与えられ、後にイエス様を抱いたマリヤを乗せて歩くようになるというストーリーです。
クリスマス会の本番、赤ちゃんイエス様がロムに語りかけるシーンで、イエス様がわたしにも語りかけてくださいました。

「もう、落ち込まなくていい。あなたはわたしが造った価値ある作品なのだよ」
 ああ、イエス様はこのことを知らせるために生まれてきてくださったのですね。
そのときから、このことを今を生きる子どもたちに伝えたいと切に願うようになりました。

「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」(エペソ2―10)


posted by 土筆文香 at 20:44| エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。