2014年01月31日

心傷ついたとき

かつてわたしは、自分のことを傷つきやすく感受性の強い人だと思っていました。色々なことで傷つき、ボロボロになって可愛そうと自己憐憫の思いを抱きながら生きてきました。

ところが、あるとき傷つくことは悪いことではないと気づかされました。
また、わたしだけがたくさん傷ついていたのではなく、ほかの人もわたしの言葉で傷ついていたことも知ったのです。

「こころの散歩道」堀 肇著 いのちのことば社
の本の中にある一文を紹介します。

「傷つけられ心に痛みを覚えるということは、確かにつらいことではありましが、必ずしもすべてがマイナスばかりではなく、視点を変えてみれば、プラスとも必要とも考えられる面もあるように思えます。」

「人から傷つけられて心が痛むという感覚も一種の安全装置とも言えます。もし痛みを感じる心がなければ、人が何で傷つくかわからないということにもなるわけです」


傷つくことは悪いことではないと伝えたくて詩を書きました。


               心傷ついたとき


心傷ついたとき
静かに痛みを味わおう
傷つくという感受性があることを喜ぼう
傷つくことは悪いことではない

人の心を傷つけてしまったとき
素直にあやまろう
許してもらえなくても 
自分を攻め続けるのはやめよう

同じ言葉でも
相手の心の状態、心の傷跡
ときや場所、場合によって
受け止められ方が違うのだから

乏しい想像力だから
どんな言葉が相手を傷つけ、どんな言葉が喜ばれるのか予想できない
もし自分だったら……と考えて言葉を発しても
喜ばれるとは限らない

相手をどんなに大切に思っていても
相手が喜び、励まされることを願っていても
かえって傷つけてしまうことがある
相手と自分の感性は違う

どんなに深い傷を負っても負わせても 
絶望的になることはない
すべてを知っていてくださるお方がいるから
心の傷を癒してくださるお方がいるから


わたしのHP「生かされて…土筆文香」詩のページ更新しました。ご覧ください。

posted by 土筆文香 at 17:28| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月28日

何もできなくてもいい

24日は児童文学者協会茨城支部の例会、25日は日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)の例会と続きました。JCP例会は会場がお茶の水なので、毎回前日に都内の実家へ行って泊まっています。

24日。児童文学例会の会場が土浦駅の近くなので、終了前に出て3時の電車に乗り実家に向かいました。
実家に着いたのは5時。夕食の支度を母と一緒にすることになっていたのに、着いたらもう出来上がっていました。(夕飯は6時なのですが、母はいつも3時半ごろから夕飯の支度をしています)

母はこの夏、体調を崩して5sも体重が減ってしまったのですが、すっかり元気快復していました。でも、ひとまわり小さくなった気がします。

久しぶりにゆっくり話しました。神戸に住んでいたころの思い出話などして話に花が咲きました。信仰の話はなかなかできなかったのですが、JCPに提出する小さなあかし文章を読んでもらったときに「イエス様を信じたからこそ、今の私がある」と言いました。


クリスチャン・ペンクラブの今年の聖句はイザヤ書40:28-30です。

あなたは知らないのか 聞いていないのか
主は永遠の神、地の果てまで創造された方。
疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。
疲れた者には力を与え、
精力のない者には活気をつける。
若者も疲れ、たゆみ、
若い男もつまずき倒れる。
しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、
鷲のように翼をかって上ることができる。
走ってもたゆまず、歩いても疲れない。(イザヤ40:28-31)


わたしは、しばしば疲れ果てて歩くことさえできなくなってしまいます。自分の限界を感じ、あきらめの中に身を置いてため息ばかりつくことがあります。祈ることさえできず、希望を失ってしまうことがあります。

でも、この聖書の言葉を読むと力づけられます。主を待ち望む者は、大空を飛ぶことができるというのです。不可能なことが可能になるのです。

出エジプト記19:4には「あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたをわしの翼に乗せ、わたしのもとに連れて来たところを見た」と書かれています。
自分の力では一歩も進めなくても、神様が鷲の翼に載せて運んで下さるのです。

とべなくても、走れなくても、歩けなくてもいいのです。神様が運んで下さるのですから。
何もできなくても、すぐ疲れてしまってもいいのです。神様が力を与えて下さるのですから。
posted by 土筆文香 at 00:00| 日本クリスチャン・ペンクラブ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月23日

「ペコロスの母に会いに行く」を読んで

「ペコロスの母に会いに行く」岡野雄一作 出版:西日本新聞社を読みました。
児童文学者協会茨城支部の1月課題図書になったからです。(図書館で予約して2か月待たされ、ようやく借りられました)


アマゾンではこの本を『62歳、無名の“ハゲちゃびん"漫画家が施設に暮らす認知症の母との「可笑しく」も「切ない」日々を綴った感動のコミックエッセイ!』と紹介しています。

40歳で故郷の長崎に戻ってきた作者が、認知症になった母親を温かい目でみつめて描いたコミックです。

わたしは、母には認知症にならないでほしいと願い、自分も絶対になりたくないと思っていました。最近は物忘れをすると、認知症になったのではないか?と恐れさえ抱くようになっていました。

でも、この本を読んで、認知症も悪くないなと思いました。

認知症の人の立場でものをみれば、ちゃんと道理が通っているのです。はたから見たら理解できないような言動をしても、ちゃんとした理由があるのです。頭ごなしに否定してはいけないことを教えていただきました。

母親が、亡き夫や若き日の自分と会ったり話したりする場面は、単なる思い出ではなく、現実に故人と会って話しているのです。
赤ん坊をおんぶして歩くとき、その赤ん坊はお孫さんではなくて原爆で亡くなったご自分の子どもなのです。

「今っていつ?」と問いかける母親は、日々過去と現在を行き来しつつ生きているのです。
空間や時間を飛び越えて生きているのですね。
長崎の方言が良い味を醸し出しています。

施設に入っていても、介護の大変さはあるでしょう。でも、愚痴や大変さをひとつも書いていません。ユーモアに満ちていて、著者の母親に対する温かい愛が伝わってきました。

昨年の11月に赤木春恵さん(88歳)主演で映画化されています。赤木さんは「世界最高齢での映画初主演女優」としてギネス世界記録に認定されたそうです。

土浦の映画館では上映されていないのでまだ観ていませんが、ぜひ観たいと思っています。

posted by 土筆文香 at 17:20| 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月21日

ほっとできる交わりの場に

児童文学者協会の集まりが金曜日にあるので、合評原稿を書いていました。ようやく書けたのでほっとしています。
クリスチャン・ペンクラブのエッセーは、まだ推敲が終わっていません。金曜日までに書き上げなければ……。
昨年、家庭集会について教会の月報に書いたエッセイを紹介します。


ほっとできる交わりの場所に         

我が家で家庭集会を始めてから23年になります。現在、メンバーは10名ほどで3軒の家を開放して順番に行っています。ときにはレストランで行うこともあります。最初のころから来ている方、10年前、数年前から参加されている方などさまざまです。

メンバーには男性が2人いらっしゃいます。思考回路の違う男性の意見が聞けることは大きな恵みです。
わたしたちは、とても熱心に学んでいます。先生のお話しをひとことも聞き漏らすまいと一生懸命メモをとりながら聞いている方もいます。
学びの最中は割合静かなのですが、意見を求められると、待っていましたとばかりにたくさん話します。先生を圧倒するほどの勢いです。

学びが終わって食事をしながら、またおしゃべりに花が咲きます。悩みや愚痴も出てきます。でも、この場所で聞いたことはほかの場所では言わないという暗黙の了解があるので、心置きなく何でも話せます。聞いている人は、ただうなずいて聞いています。解決法が見つからなくてもいいのです。話している人も、ただ聞いてもらいたい、共感してもらいたいと思っているだけです。同じような悩みを抱えている方がいると、共感しあえます。話しただけで、抱えていた重荷が随分軽くなった気がします。

「自分みたいな者は、参加しても迷惑がかかるだけだから」と言って遠慮していた方が参加してくださったときは、大きな喜びです。

文京家庭集会が自分の居場所なんだと思え、くつろげる場所になれるように。同じことを繰り返し言っても大丈夫な場所に。自分をよく見せようと飾る必要のない場所に。ほっとできる交わりの場所に。そして、お互いに祈り合う場所に。共に神様を心からほめたたえられる場所になれたらいいなあと祈っています。

来年から我が家では家庭を開放するのが大変になってきます。未信者の夫が仕事をやめ、毎日自宅にいるようになるからです。なんとか来年も続けられたらいいなあと願っています。



*家庭集会の名は文京です。(以前文京町に住んでいたので……)
*主人に週3日の仕事が与えられて、あと半年は家庭集会ができるようになりました。感謝!
posted by 土筆文香 at 21:35| エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月17日

情熱

昨日は今年初の我が家での家庭集会でした。
牧師先生と6人の方がきてくださいました。

マルコ14:32-42の学びでしたが、あまりにもたくさんのことを教えていただいたので、書ききれません。心に留まったことを書かせていただきます。


パッションという映画があります。イエス・キリストが処刑されるまでの12時間を2時間のドラマにして描かれています。数年前に観ましたが、十字架の場面があまりにも凄惨なので目を開けていられず、途中からずっと下を向いていました。

鞭で打たれ、傷ついているイエス様が十字架につけられるときは、「もうやめて!」と叫びたくなりました。

でも、もしイエス様が助けられて十字架刑をまのがれたら、どうなったでしょう……。
わたしたちがこのような苦しみを受けなくてはならなくなるのです。

どんな人間でも一度死に、死後にさばきを受けることが定められています。
「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように(へブル9:27)」
にもかかわらず、イエス様を信じれば、さばかれずにすみ、永遠のいのちをいただけるようになりました。

イエス様が代わりにさばきを受けてくださったからです。

「イエス様が人類の罪を背負って十字架にかかってくださった」ことがどういうことなのか考えると、こんなすごいことをしてくださったイエス様にどれだけ感謝してもしきれないぐらいの思いでいっぱいになります。

パッションとは「情熱」という意味です。神様が、わたしたち人間を愛するあまり、大切なひとり子イエスを十字架につけて見捨てるということをしてくださった情熱。神様の愛の情熱がひしひしと伝わってきました。

十字架につけられているイエス様のことを考えた時、自分はどこにいたのでしょう。傍観者として少し離れたところに立っていたのではないでしょうか。
十字架につけるため掌にくぎを打ち込むその手は、パッションの監督、メル・ギブソン自身の手なのだそうです。十字架につけた人は自分であると告白しているのです。

そして、苦しみもだえるキリストの姿もまた自分なのです。本当は自分がこのような苦しみを受けなくてはならなかったのだと思うようにと言われて、胸が篤くなりました。

また、十字架にかかる前夜、ゲッセマネでイエス様が苦しみもだえながら
「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし私の願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」と、祈りました。

「この杯をわたしから取りのけてください。」というのは、イエス様が生身の人間としてこられたという証拠で「しかし私の願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」というのは、イエス様がまさに神であるという証拠だと教えていただきました。

あなたのみこころのままにと祈ってくださったから、わたしたちは救われたのですね。

「わたしはあなたに何をもって感謝を表せばいいのだろう」と賛美曲「真昼のように」の歌詞が頭の中に流れています。

まひるのように

いのちをかけて愛を示された
イエス様に出会い 全てが変わった

私はあなたに何をもって、
感謝を表せばいいのだろう

真昼のように輝きながら
あなたの愛を伝えたい

イエス様のように輝き続ける
世の光にしてください

posted by 土筆文香 at 21:08| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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