2014年01月15日

もうすぐお兄ちゃん

連休にヒックンが来ました。ヒックンママのおなかがだいぶ大きくなってきたので(8か月になります)、主人の運転でヒックンの家まで迎えに行きました。

ヒックンに学校の場所を教えてもらって、学校までいってきました。歩いたら30分かかると言っていましたが、かなりの距離を毎日歩いているのだなあと思いました。車のたくさん通る道です。歩道と車道は分かれていますが、交通事故のないように毎朝祈っています。

日曜日にヒックンママが来て、胎児のDVDを見せてくれました。3Dで見ることもでき、映像がはっきりしているので驚きました。男の子ということもすでにわかっています。

男の子と知ったとき、ヒックンは大喜びしたそうです。7つも年が離れるので一緒に遊ぶことは少ないかもしれませんが、やはり赤ちゃんは男の子がよかったようです。

「ゆこちゃん(わたしの呼び名)遊んで」というので、夕飯の後片付けをおじいちゃんにしてもらって、三匹の子ぶたのペープサートを作りました。ママとおじいちゃんを観客にして人形劇をしました。ヒックンは賢い三番目の子ぶた役です。自分で考えてセリフを言っていました。

「あー!すっきりした。」
終わったとき満足そうに言いました。

夜寝るときは絵本を一冊読み、聖書のお話をしました。その後、「子守唄教えて。赤ちゃんに歌ってあげるから」とヒックンが言いました。
シューベルトの子守唄、「ねむれ、ねむれ」を歌うと、ヒックンが眠ってしまいました。

どんなお兄ちゃんになるのでしょう。車のおもちゃは赤ちゃんが5歳になるまでは貸してあげないのと言っていますが・・・・・・。


posted by 土筆文香 at 20:16| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月10日

いいことと悪いことの記憶

高校2年の時のクラスメートから連絡が来ました。クラス会をするというのです。いままで同窓会は毎年行われていたけれど、クラス会の連絡は何十年もありませんでした。40名いたクラスの中で35名と連絡がついていると聞いて驚きました。
なかには阪神大震災で亡くなっている人もいます。
兵庫県なので参加は難しいなあと思いました。第一連絡をくれた人のことをぼんやりとしか覚えていません。それだけでなく、クラスメートに誰がいたのか……担任の先生は誰だったのか……高2の時の記憶がとんでいます。

年度途中で転入した中学1年のクラス。友達がひとりもできなかった中2のクラスの方がしっかり記憶しています。

昨日メールで2年I組の名簿をみたとき、次々と思い出しました。
わたしは、修学旅行の少し前に盲腸で入院し、そのため修学旅行に行かれなくなってしまいました。
クラスのみんなは、行けなかったわたしを気遣ってお金を出し合ってお土産を買ってきてくれました。嬉しくて感激したのに引っ込み思案だったわたしは、小さな声で「ありがとう」としか言えませんでした。

Mちゃんは、人気者で誰からも好かれていましたが、高1の時のクラスで同じだった女子は一人だけだからといって、ずっと一緒にいてくれました。盲腸のときは、何度もお見舞いに来てくれました。

わたしが喘息で欠席し、久しぶりに登校した日、教室がとても寒かったので、Yちゃんは自分の上着を脱いで、はおるように言ってくれました。

高2の時は楽しかったのだなあ。悪口を言う人もなく、クラスメートはみんな優しかったなあ……と感謝にあふれました。40年以上前のことです。

辛いとき、緊張したり異常な体験をしたとき、苦しいときはしっかりと覚えているのに、人から優しくされたことや感謝なことは、忘れやすいのかもしれません。
いいことがたくさんあったのに、苦しいことが少しだけあると、苦しいことばかり起きるような気がして不満を言ってしまいます。

「私達は幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」と言ったヨブを見習わなくてはと思いました。


この前の日曜日、教会学校でヨブ記のメッセージをしました。これまで教会学校でヨブ記を扱ったことはほとんどありません。ヨブの名を知っている子どもは数人でした。

たくさんの家畜、召使、財産を持っていたヨブは、正しい人でいつも神様を崇めていました。ところが、次々と災害が起こり、召使いや家畜を失い、10人の子ども達まで失ってしまいました。さらにヨブ自身は重い皮膚病にかかり、苦しんでいました。
そのようなときヨブは「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」
と言いました。
奥さんはこんなひどい目に合わせる神様なんか信じるのをやめなさいと言いました。(聖書には「神を呪って死になさい」と書かれています。)

「私達は幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」
と、ヨブは言うのです。

ヨブのお話をした後、わたし自身の病気のことを話しました。これまで教会学校の子どもたちに癌のことを話したことはありませんでした。

わたしは、子どものころ喘息でずいぶん苦しみました。大人になってからも喘息が出て大変辛い思いをしました。こんなに辛いことがあったのだから、癌にはならないだろうと思っていたのに、乳がんになりました。
癌と診断され、それが大変な病気だとわかったとき、「神さま、どうしてですか?」と尋ねて泣きました。
そのとき、ヨブが「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と言ったのを思い出して神様はわたしに悪いことだけを与えているのではないと気づきました。いいこともたくさん与えてくださっているのです。そして、病気は辛いけれど、悪いこととは限らないと思いました。

癌になって、いいことがありました。それは、同じ癌で苦しんでいる人の気持ちがわかるようになったことです。
わたしが癌になる前は、再発転移が怖いと言っている人に「だいじょうぶよ」と気軽に言い、どうしてあんなに心配するのだろうと思っていました。
でも、自分が癌になってから、簡単にだいじょうぶと言えなくなったこと、癌になった人と一緒に泣くことができるようになったと
話しました。

子どもたちがどう受け止めたかわかりませんが、これからの人生で『なぜこんなことが起こるの?』と思うようなことがあったとき、ヨブのことを思い出してほしいなあと思いました。
posted by 土筆文香 at 16:55| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月07日

先に大事にすること

お正月気分が抜けず、まだ頭がぼおっとしています。
今日は七草セットを買ってきました。今晩は七草粥を作ります。

七草粥には、その年1年が健康で、平和に暮らせるようにとの意味が込められているそうです。
また、正月におせち料理などを食べ、疲れた胃腸を休めるとともに、野菜が不足がちな冬に、ビタミンやミネラルを、効果的に摂れる効果があるそうです。
昔の人はビタミン、ミネラルのことを知らなかったのにすごい知恵を持っていたのですね。


5日の日曜日は、元旦礼拝のメッセージの続きを聞きました。メッセージを聞いて感じたこと考えたことを書きます。


「互いに愛し合いなさい」と聖書に書いてありますが、考えてみると相手に欲求することが多いです。
愛し合いたいのに相手が愛してくれないからわたしも愛さない。相手がやさしくしてくれたらわたしもやさしくするのに……。相手が赦さないから、わたしも赦さない。
と言って反目しあう人たちがいます。

子どもたちが小さかったころ、毎日毎日兄妹喧嘩をしていました。「どうして喧嘩ばかりするの!」と長男に問いただすと「ぼくは仲良くしたいと思っているのに、Mちゃんがにらみつけるんだ」と言い、長女にも同じ質問をすると「わたしは仲良くしたいと思っているのにお兄ちゃんが意地悪するんだもん」と答え、喧嘩はやみませんでした。

お互い相手に求めているのですね。自分からやさしくしたら損だと思っているようです。

「愛することをまず自分からはじめなければならない」と牧師先生が言われました。
それには理由があります。それは、まず神がわたしを愛してくださったという事実があるからです。

もし、わたしが相手を思いやろうと決意しているなら、先に相手を思いやりましょう。
もし、わたしが相手を大事にしようと決意しているなら、先に大事にしましょう。
もし、わたしが嫌いな人がいても、わたしの方から大事にしましょう。
もし、わたしに被害を被らせた人がいても、わたしの方から大事にしましょう。
もし、わたしに敵意を持つ人がいても、わたしの方から大事にしましょう。


このことは簡単なようで意外と難しいですが、ひとりひとりが実行できれば、世界は平和になるでしょう。
愛することは、相手を大事にすること、大切にすること。

もし、相手を大事にしようと決意しているなら、神はわたしの心に住んでくださるのです。

「もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。(Tヨハネ4:12)」
posted by 土筆文香 at 17:05| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月04日

愛するとは

明けましておめでとうございます。
本年もブログ「生かされて」をどうぞよろしくお願いいたします。

「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公儀を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。(ミカ6:8)」

年の初めに心に留まった聖書の言葉です。
新年の抱負というわけではありませんが、2014年はどのような歩みをしていこうかと思いめぐらしていたときにこのみことばを読みました。
よいことをしようとか、自分がしたいことをしようとか、そういうことではなくて、神様がわたしに何を求めておられるのか伺いながら神と共に歩んでいきたいと思いました。


元旦礼拝では、今年の年間聖句のメッセージが語られました。
今年の年間聖句は「もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。(Tヨハネ4:12)」です。

この少し前には次のように書かれています。
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(Tヨハネ4:10)」

まず最初にわたしたちが神を愛したのではなく、神様の方から愛してくださいました。
その愛というのは、感情に左右されるものではなく、また、一時的なものでもありません。
抽象的なものではなく、実践の愛、行為としての愛なのです。

どのような行為かといえば、『私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。』ということ、つまり神様が私たちを罰する代わりにイエス様を身代わりとしてその命を差し出してくださったという行為です。

我が子のために自分の命を捨ててもいいと思う親は多いですが、人類を救うために愛するわが子のいのちを差し出す人はいませんね。
神様はひとり子のいのちを差し出してまでわたしたちを愛してくださったのです。

神様がこんなに愛してくださったから、わたしたちも愛することができるのですね。
赦されない者が赦されたから、人を赦すことができるのですね。

それでも、嫌いな人を愛するのは難しいです。感情のままにしていたら、決して愛することはできません。
「愛するとは意志の問題、決意の問題です。」と牧師先生が言われました。

神様は、わたしたちが神と人を愛する者になって欲しいと切望しておられるのですね。
わたしは愛に欠けた者ですが、愛することができるように祈りました。
posted by 土筆文香 at 17:16| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。