2014年01月04日

愛するとは

明けましておめでとうございます。
本年もブログ「生かされて」をどうぞよろしくお願いいたします。

「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公儀を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。(ミカ6:8)」

年の初めに心に留まった聖書の言葉です。
新年の抱負というわけではありませんが、2014年はどのような歩みをしていこうかと思いめぐらしていたときにこのみことばを読みました。
よいことをしようとか、自分がしたいことをしようとか、そういうことではなくて、神様がわたしに何を求めておられるのか伺いながら神と共に歩んでいきたいと思いました。


元旦礼拝では、今年の年間聖句のメッセージが語られました。
今年の年間聖句は「もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。(Tヨハネ4:12)」です。

この少し前には次のように書かれています。
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(Tヨハネ4:10)」

まず最初にわたしたちが神を愛したのではなく、神様の方から愛してくださいました。
その愛というのは、感情に左右されるものではなく、また、一時的なものでもありません。
抽象的なものではなく、実践の愛、行為としての愛なのです。

どのような行為かといえば、『私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。』ということ、つまり神様が私たちを罰する代わりにイエス様を身代わりとしてその命を差し出してくださったという行為です。

我が子のために自分の命を捨ててもいいと思う親は多いですが、人類を救うために愛するわが子のいのちを差し出す人はいませんね。
神様はひとり子のいのちを差し出してまでわたしたちを愛してくださったのです。

神様がこんなに愛してくださったから、わたしたちも愛することができるのですね。
赦されない者が赦されたから、人を赦すことができるのですね。

それでも、嫌いな人を愛するのは難しいです。感情のままにしていたら、決して愛することはできません。
「愛するとは意志の問題、決意の問題です。」と牧師先生が言われました。

神様は、わたしたちが神と人を愛する者になって欲しいと切望しておられるのですね。
わたしは愛に欠けた者ですが、愛することができるように祈りました。
posted by 土筆文香 at 17:16| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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