2014年03月11日

がっぴょうけん

8日、日本児童文学者協会主催の第1回『がっぴょうけん』が代々木の国立オリンピック記念青少年総合センターで開かれたので参加してきました。

『がっぴょうけん』とは日本全国の会員が原稿を持ち寄り、互いに合評して書く力を鍛える「合評創作研究会」です。
昨年、「がっぴょうけん」のお知らせを見たとき、迷いました。プロの作家や編集者、出版社の方たちも参加されると聞いて恐ろしかったからです。それでも、2年前から書いている長編をみていただきたいという思いはありました。祈っているうちに原稿を提出しようという思いが募り、エントリーしました。

長編の部は2グループあって、1グループ5作までしか受け付けられません。申し込み順に受け付けということなので、申込日の午前中に郵便局へ行きました。早く申し込んだかいがあって、原稿提出者のひとりになりました。
あらかじめ原稿を送りあってって、ほかの方の作品を読んでおきます。力作ばかりで、圧倒されました。その日を待つのは緊張の日々でした。

人の評価が絶対ではありませんが、橋にも棒にもかからない作品という評価を受けたら、童話や小説を書くのはもうやめにして、エッセイだけ書くことにしようと、作家生命を賭けての参加でした。

長編の部Aは、参加者16名でした。時間は13時から17時まで。1作品45分ぐらいかけてじっくり話し合います。厳しい評価もありますが、納得できることばかりです。

わたしの作品は意外にも高く評価されました。時代小説なので、言葉遣いの注意や歴史的裏付けをとらなくてはいけないことなどを教えていていただきました。
出版社の方は、120枚という長さが中途半端なので、半分の長さにして絵本のようなかたちにするなら出版できると言ってくださいました。

でも半分にすると作品の持ち味がなくなってしまうのでだめという意見が出ました。確かに半分にはできない作品です。

いつか用いられる時がくるかもしれないので、細かいところを直して完成させたいです。

ほかの方の作品の合評もすごく勉強になりました。充実した時間でした。長い作品を読んでいただけただけでもありがたいのに、丁寧に読んでもらい、貴重なアドヴァイスをいただけて感謝しました。

がっぴょうけんが終わった後、上野駅で待ち合わせして姪を土浦に連れてきました。
姪は高校3年生です。受験も卒業式も終わったので泊りがけで来ました。9日は一緒に教会へ行くことができました。

昨日は娘とふたりでクッキー作りをしていました。今日はふたりで買い物に出かけています。

日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。わたしのエッセイも掲載中です。ぜひごらんください。
posted by 土筆文香 at 16:54| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月06日

神様は厳しい?それとも優しい?

今日自転車で出かけようとしたら後ろのタイヤがパンクしていました。タイヤを見るとひび割れて、滑り止めはすり減ってツルツルになっています。自転車であちこち出かけることが多いので相当な走行距離になったのでしょう。

近くのホームセンターではパンク修理をしてもらえなくなったので、教会の近くにあるイオンまで自転車を押して歩きました。冷たい風が、これでもかとふいていました。

前回パンクしたときは夏の暑い時期でした。熱中症を恐れながら自転車を押して歩いてフラフラになったことを思い出しました。暑いより、寒い方がずっと楽です。
タイヤを交換してもらって帰りはすいすいでした。


昨日は水曜礼拝の後、我が家で聖書輪読会をしました。メンバーの3人が来てくれました。
旧約聖書の民数記を読んでいます。

旧約聖書を読むと、神様の厳しさを知らされます。

神様は、モーセとアロンに逆らったコラたちを罰しました。地が割れて、逆らった者たちは生きたまま地に呑み込まれてしまったのです。
安息日にたきぎを集めていた人を、神様は石打ちの刑にするように告げ、その人は打ち殺されてしまいました。安息日には仕事をしてはいけないという決まりがあるからです。

逆らっただけで地に呑み込まれる? たきぎを集めただけで石打ちの刑? 神様は愛のお方なのにどうして? 旧約聖書の神様は厳しくて、新約聖書の神様は優しい? と思われる方もいるでしょう。

旧約聖書も新約聖書も同じ神様です。神様は義なるお方なので、罪をそのまま見過ごすことができません。神様は人を愛するがゆえに律法を与えてくださいました。その律法を守ることで人はしあわせに生きられるのです。守らなかった時には罰が与えられます。 
ところが、人は罪の性質を持っているので律法を守りきれません。

自分のことを顧みると、恥ずかしくなります。神様を賛美した直後に人を妬んだり、文句を言ったり、つぶやいたり……。たった一日でも一度も罪を犯さずに過ごした日があったでしょうか。

もし、旧約聖書の時代に生きていたら、罰せられていたでしょう。
聖書には「すべての人は罪を犯したので神からの栄誉を受けることができず(ローマ3:23)」と書かれています。

罪を犯し、滅びの道をまっしぐらに進んでいる人たちを見て、神様はなんとか救いたいと思われました。
それで、人間に罰を下す代わりに、ご自分のひとり子のイエス様に罰を与えることにしました。
それは、神様にとって非常に辛いことでした。でも、ひとりひとりの人間を深く愛している神様は、人々をなんとか救いたいと切望されたのです。
罪ある人の代わりに罪のないイエス様を罰することによって、罪ある人たちが救われるのです。

イエス様は、身代わりになるために地上に生まれてきてくださいました。イエス様は、人々の侮辱に耐え、十字架の肉体の痛みに耐え、最後は神様に見捨てられるという辛さを味わってくださいました。
本当は、わたしが受けなければならない苦しみだったのに……。

イエス様が十字架にかかってくださったおかげで、わたしは神様から罰を受けなくてよくなりました。イエス様を信じるだけで永遠の命をいただきました。

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(1ヨハネ4:9〜10)


旧約聖書を読むと、イエス様のしてくださったことの大きさに胸が篤くなり、感謝と喜びに満たされます。
posted by 土筆文香 at 20:56| ハテナシリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月03日

ずっとこのままがいい

先日6歳のヒックンが来たとき、「ぼく、100歳まで生きる。でも、ずっとずっとこのままがいい」と、おなかの大きいママにしがみついて言いました。

人間は年をとっていつかは死ぬこと、ずっと今のままでいたいけど、変化していくこと。6歳の子どもが、その空しさをすでに感じとっているのです。
そういえば長男も一年生のころ「ずっとこのままでいたい」と言っていました。長男は「家族4人でずっと暮らしていたいから、結婚しないんだ」と言ったのです。それでいて早々と結婚して家を出たのですが……。

「ずっとこのままがいい」と言えるのは、今が幸せだからだと思います。今、耐えられないような苦しみの中にいるなら、変化を求めるでしょう。

地上の歩みは長いようで短く、どんなに恵まれた人生を送っても、老、病、死からまのがれません。毎日目に見えないほどわずかかもしれませんが、人は変化していきます。

人だけでなく、動植物も地球も年をとり、建造物も朽ちていきます。この天地は滅びるのです。

聖書の伝道者の書3:11には、「神はまた、人の心に永遠を与えられた。」と書かれています。永遠への思いを与えられたのです。

それだけでなく、神様はわたしたちに永遠のいのちを与えてくださいました。それは、地上で永遠に生られるという意味ではありません。

人間の死には、肉体の死と魂の死があるのです。神様は、わたしたち人間をとても愛してくださっていますから、魂が永遠に生きられるようにしてくださいました。苦しみも悲しみも死もない天国で永遠に生きられるとは、なんと幸いなことでしょうか。


「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものがもはや過ぎ去ったからである。(ヨハネの黙示録21:4)」


天国とはこのようなところです。
posted by 土筆文香 at 17:16| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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