2014年03月06日

神様は厳しい?それとも優しい?

今日自転車で出かけようとしたら後ろのタイヤがパンクしていました。タイヤを見るとひび割れて、滑り止めはすり減ってツルツルになっています。自転車であちこち出かけることが多いので相当な走行距離になったのでしょう。

近くのホームセンターではパンク修理をしてもらえなくなったので、教会の近くにあるイオンまで自転車を押して歩きました。冷たい風が、これでもかとふいていました。

前回パンクしたときは夏の暑い時期でした。熱中症を恐れながら自転車を押して歩いてフラフラになったことを思い出しました。暑いより、寒い方がずっと楽です。
タイヤを交換してもらって帰りはすいすいでした。


昨日は水曜礼拝の後、我が家で聖書輪読会をしました。メンバーの3人が来てくれました。
旧約聖書の民数記を読んでいます。

旧約聖書を読むと、神様の厳しさを知らされます。

神様は、モーセとアロンに逆らったコラたちを罰しました。地が割れて、逆らった者たちは生きたまま地に呑み込まれてしまったのです。
安息日にたきぎを集めていた人を、神様は石打ちの刑にするように告げ、その人は打ち殺されてしまいました。安息日には仕事をしてはいけないという決まりがあるからです。

逆らっただけで地に呑み込まれる? たきぎを集めただけで石打ちの刑? 神様は愛のお方なのにどうして? 旧約聖書の神様は厳しくて、新約聖書の神様は優しい? と思われる方もいるでしょう。

旧約聖書も新約聖書も同じ神様です。神様は義なるお方なので、罪をそのまま見過ごすことができません。神様は人を愛するがゆえに律法を与えてくださいました。その律法を守ることで人はしあわせに生きられるのです。守らなかった時には罰が与えられます。 
ところが、人は罪の性質を持っているので律法を守りきれません。

自分のことを顧みると、恥ずかしくなります。神様を賛美した直後に人を妬んだり、文句を言ったり、つぶやいたり……。たった一日でも一度も罪を犯さずに過ごした日があったでしょうか。

もし、旧約聖書の時代に生きていたら、罰せられていたでしょう。
聖書には「すべての人は罪を犯したので神からの栄誉を受けることができず(ローマ3:23)」と書かれています。

罪を犯し、滅びの道をまっしぐらに進んでいる人たちを見て、神様はなんとか救いたいと思われました。
それで、人間に罰を下す代わりに、ご自分のひとり子のイエス様に罰を与えることにしました。
それは、神様にとって非常に辛いことでした。でも、ひとりひとりの人間を深く愛している神様は、人々をなんとか救いたいと切望されたのです。
罪ある人の代わりに罪のないイエス様を罰することによって、罪ある人たちが救われるのです。

イエス様は、身代わりになるために地上に生まれてきてくださいました。イエス様は、人々の侮辱に耐え、十字架の肉体の痛みに耐え、最後は神様に見捨てられるという辛さを味わってくださいました。
本当は、わたしが受けなければならない苦しみだったのに……。

イエス様が十字架にかかってくださったおかげで、わたしは神様から罰を受けなくてよくなりました。イエス様を信じるだけで永遠の命をいただきました。

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(1ヨハネ4:9〜10)


旧約聖書を読むと、イエス様のしてくださったことの大きさに胸が篤くなり、感謝と喜びに満たされます。
posted by 土筆文香 at 20:56| ハテナシリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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