2014年04月09日

永遠のいのち

昨年の10月から水曜礼拝では「使徒信条」の学びをしています。20回にわたって学んできましたが、今日最終回を迎えました。「使徒信条」とは、キリスト信仰の内容を示したもので、信仰告白文です。

使徒信条を紹介します
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、
イエス・キリストを信ず。
主は聖霊(せいれい)によりてやどり、
処女(おとめ)マリヤより生れ、
ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、
十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、
三日目に死人のうちよりよみがえり、
天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり、
かしこより来たりて、
生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまわん。
我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、
聖徒の交わり、罪の赦し(ゆるし)、身体(からだ)のよみがえり、
永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。 
 アーメン。


使徒信条は、礼拝の中で唱えますが、一文一文に深い意味のあると教えられました。

最後に「永遠(とこしえ)のいのちを信ず」と書かれています。

若いころ、永遠のいのちとは何だろう……と思っていました。
ちょうど銀河鉄道999の映画が上映されていたころでした。
映画を観て、永遠のいのちとは死なない身体になることで、それを得ても必ずしも幸せとは限らないと思いました。限られた時間を生きているからこそ、幸せと感じることもあるのだと考えていました。


でも、聖書に示されている永遠のいのちとは、そのような意味ではないのです。永遠とは時間の無限の延長ではなかったのです。

「「永遠のいのち」とは、「もの」ではなくて、「神と共にいる状態」のことです。」と牧師先生が言われました。
聖書には次のように書かれています


「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)」

永遠のいのちを持つことは、神の国に入る、神の国を見るということになるそうです。

永遠のいのちは「もの」ではなく、神ご自身の中に包んで、いつまでもその状態でいてくださることです。


神様自身の中に包まれ、その状態がずっと続くのなら、このうえなく幸せでしょう。

そんな幸せな気分を地上でも味わう瞬間があります。
美味しい物を少しだけ試食するような感じです。
そんなときは、すでに永遠のいのちをいただいていると言えるのですね。


「イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。(ヨハネ4:13-14)」

posted by 土筆文香 at 21:13| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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