2014年05月29日

こんなはずじゃなかった

昨日は水曜礼拝でした。
出エジプト記を学んでいますが、聞いたことをそのまま書くと原稿用紙20枚分ぐらいの長さですので、その中で特に心に残ったことだけを書くことにします。

モーセのミデヤンでの40年を歌ったもののようだとして、「生きる」の歌詞が紹介されました。

          生きる

「こんなはずじゃなかった」と思うときは生きるのがつらい
花を咲かそうと焦ってみても つぼみのひとつも開きはしない
生きる喜びも悲しみも すべてのことは神様から
無意味な時などひとつもなく 無駄な人生はどこにもない

「これでよい」と思えるとき 生きる喜びがあふれてくる
固く閉ざされた土の下にも 気づかないうちに根が伸びてる
生きる喜びも悲しみも すべてのことは神様から
無意味な時などひとつもなく 無駄な人生はどこにもない


この「生きる」という歌は、めぐみ教会オリジナルソングで牧師夫人のM・H先生が作詞作曲されたものです。土浦めぐみ教会のHPから曲が聴けますので、ここをクリックしてください。


人生の中でこんなはずじゃなかったと思うことが起こりますね。
「子育てに振り回されて自分の時間がなくて、やりたいこともできない時期が続き、ようやく子どもが大きくなって、自分の時間が持てたと思った矢先に……」「会社のために身を粉にして働き、やっと退職してこれからゆっくり好きなことをしようと思った矢先に……」
事故にあったり、癌になったり、予想もしない出来事に見舞われると、精神的に病んでしまうことが多いそうです。
精神科医の柏木哲夫先生はそれを「矢先(やさき)症候群」と名付けています。

イスラエル人でありながらエジプトの王子として育てられたモーセは、正義感からイスラエル人を虐待していたエジプト人を殺してしまいました。
そのことでエジプト人社会からもイスラエル人の社会からも拒絶されて、仕方なしにミデヤンの地に逃げて行きました。そこで40年も羊飼いとして過ごしました。
最初は、「生きる」の歌詞のように「こんなはずじゃなかった」と思ったことでしょう。

「こんなはずじゃない」という人生を歩んでいるというのは、「自分の人生」をまだ肯定できていない、また自分の現在の姿を受け入れられない状態のことです。
それに対して「これでいいんだ」という人生は、今の自分に対する恵みを十分に感謝できている状態のことです。
と牧師先生が言われました。

モーセはミデヤンの地で暮らす間に「こんなはずじゃなかった」から「これでいい」と思える人生に変えられたのです。
ミデヤンの地で40年過ごしたころ、モーセは不思議な現象を見ました。柴が燃えているのに燃え尽きないのです。その現象はほかの羊飼いたちも見ていたはずですが、見に行くために山に登ったのはモーセだけでした。

「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。(出エジプト記3:3)」と聖書に書かれています。
モーセは、不思議な現象として見たのではなく「大いなる光景」として見たことから神との出会いにつながったのです。

神との出会いは「不思議さ」に鍵があるのではなく、人が不思議な現象の中に「大いなる光景」を見いだせるとき、神との出会いの糸口が生まれるのです。


「こんなはずじゃない」と思っているうちは、神様と出会う可能性があっても、気づかずに過ごし、機会を失ってしまうような気がします。
どうしてもこうありたいという願いを強く持っていて、それが叶えられないかもしれないと思ったとき、「こんなはずじゃない」と怒りに似た感情を抱いてしまいます。そういうときは、見るべきものが見えていません。何かに囚われていて心に余裕がなく、神と出会うチャンスがきているのに失ってしまうのです。

でも、「これでよい」と思えたときは、心に余裕がもてます。自分ばかり見つめるのでなく、周りを見る余裕ができるのです。そんなとき、大いなる光景を見い出し、神との出会いの経験をすることができるのだなあと思いました。
posted by 土筆文香 at 16:34| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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