2014年06月28日

時を待つ

昨日はOさん宅での家庭集会でした。マルコの福音書6:1〜6aからの学びをしました。

イエス様が公生涯に入られてから2回目に郷里ナザレを訪ねたときの出来事です。
1回目に訪れたときのことはルカ4:14〜30に書かれていますが、ナザレの人々はイエス様に強い拒否反応を示しました。

それなのにイエス様が再びナザレを訪れたのはなぜでしょう。ナザレの人にも福音を伝えたいと思われたからでしょう。
イエス様はナザレの会堂で聖書について教えました。当時、会堂ではユダヤ人の男子なら誰でも聖書を読んだり、語ったりすることができたので、イエス様のなさったことは、非常識なことではなかったそうです。

イエス様の言葉を聞いた人たちは驚きました。聖書には次のように書かれています。

「それを聞いた多くの人々は驚いて言った。「この人はこういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行われるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。この人は大工ではありませんか……」
                                              (マルコ6:2〜3)


イエス様の知恵や力あるわざに驚嘆しながらも、イエス様のことを以前から知っている人たちは馬鹿にしています。

当時「大工」という言葉は、石工や金工にも用いられる言葉で、一般的にはどんな仕事でも請け負う便利屋、細工師、技術屋をさしたそうです。

ナザレ以外の土地では、イエス様を預言者あるいは神であると思った人たちもいました。でも、イエス様の家柄や昔のことを知っているナザレの人たちは、イエス様を人間としてしか見ることができませんでした。

イエス様は家族からも理解されなかったのです。

「それで、そこでは何一つ力あるわざを行うことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。(マルコ6:5)」

と書かれているようにイエス様は奇跡を行うことをせず、立ち去りました。

ナザレで奇跡を行えば人々はイエスを神の子と認めるのに、なぜ奇跡を行わなかったのでしょう。行えなかったのでしょうか……。いいえ。行えなかったのではなく、あえて行わなかったのです。

不思議な出来事を見ただけで信じた者は、イエス様の教えを知ろうとせず、もっと奇跡を求めるようになります。不思議な出来事だけに目を向けるようになるので、奇跡を起こさなかったのです。

郷里の人たちは、イエス様を信じるのが困難で、かえってつまずいています。

「イエスは彼らの不信仰に驚かれた。(マルコ6:6)」と書かれていますが、それはナザレの人たちをあきらめたわけではなく、その人たちが信じるには時間が必要で、信じることができる「時」があるので待つとおっしゃっているのです。

後に母マリヤときょうだいたちは、イエス様を救い主として信じるようになったのです。

夫や母や息子たち、周りの人たちが救われる日をわたしは待っています。
posted by 土筆文香 at 16:41| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月24日

原因さがし

今日は午前中から激しい雷雨がありました。都内では雹が降ったとか……。テレビではどうしてこんな天気になるのか一生懸命説明していましたが、穏やかな天気に変えることは出来ません。大自然の前に人は何もすることができませんね。


先日の礼拝メッセージは、先週の続きで使徒の働き28章から語られました。
誰かが不幸な目に遭うと、その人の行いが悪かったからじゃないかとか、その人の親が悪いことをしたのではないかと原因探しをする人がいます。不可抗力の事故に逢うと、バチがあたったのだという人がいます。
そんな声が聞こえてくると、二重に苦しむことになります。

2000年前も、そのようなことがありました。パウロたちは難船してようやくのことでマルタ島にたどりつきました。
火にあたっていると、マムシが這い出てきてパウロの手に取りつきました。それを見た島の人は、パウロが人殺しだからバチが当たったのだと考えました。

でも、パウロはパニックにならず、落ち着いて対処しました。そして、何の害も受けませんでした。
このことは、以前イエス様が言われた約束の成就といえます。
イエス様は「信じる人々には次のようなしるしが伴います。(マルコ16:17)」と言われ、「蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず……(マルコ16:18)」と約束してくださいました。 

今日こうして生きていることが神様の約束の成就だと聞いて、ジーンときました。乳がんの手術を受けてから11年。こんなに生きられるとは思いませんでした。家事ができ、食事ができ、教会へ行け、こうしてPCの前にすわっていられる幸いを感謝せずにはいられません。


イエス様の弟子たちも因果応報的な考えを持っていたようです。弟子たちは、生まれつきの盲人を見て尋ねました。
「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」
イエスは答えられた。
「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」(ヨハネ9:2-3)


『神のわざが現れるため』という答えに感動します。

不慮の事故、突然の病気、災難が起きると、パニックになってしまいます。
何も悪いことをしていないのになぜこんなことが起きるの? と理不尽さに腹を立てます。
でも、神のわざが現れるために起きたことだとしたら、不幸と思われる出来事も実は不幸ではなく、幸いな出来事になります。

渦中にいるときはわからなくても、後に「よかった」と思える日が必ず来ると、神様が約束してくださっているように思います。
「恐れず、神に信頼して歩むとき、神の確かな守りと支えを知るでしょう」という牧師先生の言葉に深くうなずきました。
posted by 土筆文香 at 21:09| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月20日

低い自己評価

5/26の日経新聞に次のような記事が載っていました。

『日本の若者は自己評価が低く、将来を悲観している――。
2013年11〜12月に日本、韓国、米国、英国、ドイツ、フランス、スウェーデンでインターネット調査を実施し、各千人程度から回答を得た。日本では1175人が回答した。
 「自分自身に満足している」と答えたのは1位の米国が86.0%、6位の韓国でも71.5%だったが、日本は45.8%と著しく低かった。「自分には長所がある」と答えた割合も日本は68.9%で最下位。他国は93.1%(米国)〜73.5%(スウェーデン)だった。』


日本の若者は、自己評価が他国に比べて少し低い程度ではありませんね。著しく低いのです。
劣等感をもっている人が非常に多いです。自分の中に価値が見いだせないのです。
「自分に長所がある」と思わない人が30%以上もいるということに驚きます。

幼少のころからほめられるより、ダメなところを指摘されて、しかられながら育ってきた子どもが多いからではないでしょうか。向上心が出てくると思って親はしかるのですが、否定され続けていると、自分の中にいいものはひとつもないと思ってしまいます。
わたしも自己評価の非常に低い者でした。自分自身を否定し、別の人間になりたいと思っていたくらいでした。強い劣等感があり、自分は欠陥人間だと思っていたのです。

両親は厳しく、小学4年生までは口答えもできませんでした。でも、5年生になった頃から父親に逆らい、母親にも逆らう子どもになりました。反抗期は20歳近くまで続きました。

自分はどのような人間なのか、何をすればいいのか……それがわからないうちはゴールがみえないのにがむしゃらに走っているマラソン選手のようでした。遠回りし、ときには反対向きに走っていました。生きているのが苦しくて途中でリタイヤーしたいと思いました。

そんなとき、わたしが神様によって目的を持って造られた存在だと知ったのです。しかも、この大地が造られる前からわたしを造る計画がたてられていたというのです。
そのことを知ってどれだけ嬉しかったでしょうか……。

「すなわち、神はわたしたちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。(エペソ1:4)」

もし、人が偶然で生まれるのなら、人生の意味や目的を見出すことができないでしょう。偶然でできた人なら、その中に劣った人や優れた人があるいはいるかもしれません。

そうではなく、神が計画して人を創造されたのだとしたら、ダメな人間、不必要な人間などひとりもいないのです。
自分は能力がない、ダメだと思っている人にも隠された能力があり、その能力は何かをするためにあるのだと知るでしょう。能力にはさまざまな種類があるので優劣つけることはできません。学校のテストで測ることができる能力はほんの一部に過ぎません。

存在そのものが尊いことを、自己評価の低い人たちが知ることができますように。 

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。イザヤ43:4」

posted by 土筆文香 at 17:24| その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月17日

カイザルの前に立つとき


一昨日の礼拝メッセージは、使徒の働き27章から語られました。この章にはパウロがローマにおくられるときの船旅のようすが詳しく書かれています。

2000年前の船がどのようなものだったかわかりませんが、航海には危険が伴うものです。
地中海は冬季の嵐のため、11月から3月までは航海が閉鎖されていました。この時は、10月であっても航海の危険な時期でした。

でも、船長たちは冬を過ごすのに適当な港へ行くと言って、パウロが危険だと言うのを無視して出帆しました。パウロにはたくさんの航海の経験があり、難船したこともあったので、危険を察知していたのですが、聞き入れてもらえませんでした。

まもなく船は暴風に巻き込まれ、漂流することになりました。
聖書には「吹き流されるまま」(15節)、「積荷を捨て始め」(18節)、「太陽も星も見えない日が幾日も続き」(20節)、「激しい暴風がふきまくる」(20節)、「助かる最後の望みも今や断たれようとしていた」(20節)、「長いこと食事をとらなかった」(21節)と書かれています。

船に乗っているほとんどの人たちは、助かる望みを絶たれ、食事をする元気さえなくなっていたようです。

そんな中、パウロは力強く語りました。「元気を出しなさい」(22節)「いのちを失う者はひとりもありません」(22節)「私たちは必ずどこかの島に打ち上げられます」(26節)「食事をとることを勧めます」(34節)

なぜパウロはそのように言えたのでしょうか。それは神様の声を聞いたからでした。
神様はパウロが必ず助かって、カイザルの前に立つときがくると約束してくださいました。

神様の約束は反故にされることがありません。神の言葉を信じたパウロは、絶望している人たちを励ますことができたのです。

実際、船は900キロも流されましたが、マルタ島に漂着しました。いのちを失った人はだれもいませんでした。

「絶望したとき、神の言葉を待ち望むことが大切です」と牧師先生が言われました。

わたしは、メッセージを聞いて、それが自分に語られているように思い、胸騒ぎがしました。
「約束が遂行されるときがくる。そのとき、あなたはカイザルの前に立つ。そのときは恐れずに信仰の証しをしなさい」と、神様が語りかけてくださったのです。

約束とは何か、カイザルとは誰なのか、はっきりわかりませんが、心に留めたいと思います。
posted by 土筆文香 at 15:58| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月14日

笑い上戸(その2)


 さやかは亜佐美に背を向けてむっつりしていたが、ようやく口を開いた。
「わたしを笑わせたら、劇に出てもいいよ」

(やった!)亜佐美はガッツポーズをした。
「アルミ缶の上にあるみかん。ふとんがふっとんだー。内臓がないぞう。梅はうめえ」
亜佐美はさやかを笑わせようと必死だ。
「猫が塀から落ちた。へえっ!」
さやかは二コリともせず、すましている。

(ヤバイよ。さやかが笑わなかったら、あたしが笑い上戸の役をやらなきゃなんない)
 翌日、亜佐美が笑い話のネタをいくつも考えて学校へいくと、さやかは学校にきていなかった。今まで休んだことがなかったのに。

 放課後、亜佐美はさやかの家に向かった。商店街の外れの細い路地裏をいくと、トタン屋根の平屋が並んでいた。一軒の家から五歳ぐらいの男の子が泣きながらとびだしてきた。

「待て、こら。逃げる気か」
 耳が痛くなるほどの声がして、父親らしき男が追いかけてきた。片手に酒瓶を持っている。亜佐美は思わず電信柱の陰に隠れた。
 男の子は顔をひきつらせてじっとしている。男は、子どもの襟首をつかんだ。

「やめて!」
そのとき、聞き覚えのある声がした。さやかだ。さやかが裸足でとびだしてきて男の子をかばうように抱くと、
「お父さん、サトルは悪くないでしょ」
といって、父親から酒瓶をとりあげ、男の子と一緒に家の中にもどった。

「こら、酒持っていくな!」
 父親の叫ぶ声のあとに、ケタケタケタとさやかのいつもの笑い声が響いてきた。

「アーハハハハハ、酒瓶がころがってる」
「ハッハッハッハッ」
「フフフフフ」

 父親と男の子の笑い声も聞こえた。亜佐美は声も出なかった。しばらく玄関の前に佇んでいると、さやかが気づいて顔を出した。
「亜佐美……」
 さやかはきまり悪そうな顔をした。
「今日休んだから、どうしたかと思って」
「ちょっと待って」
 さやかはくつをはいて出てきた。ふたりは日の当らない路地を並んで歩いた。

「母さんが家出してから、父さんはお酒を飲むたびにサトルをたたいたり突き飛ばしたりするの」
さやかは下唇を噛んで地面をみつめた。

「わたしが面白いことをみつけて笑うと、父さんやサトルも笑って、平和になるんだ」
「それじゃ、学校で大笑いしてたのは……」
「つらいことを忘れるためだったの。ほんとはちっともおかしくなかった。でも、笑ってないと不安でたまらなくなるから……」
さやかの目からポロッと涙がこぼれ落ちた。
「……ごめん。王女の役はあたしがやるよ。死ぬ気でやればできるさ。ハハハ」
 亜佐美は作り笑いをした。

「そんな笑いじゃだめ。こうするの。ワーハハハハハ」
さやかはおなかをかかえて笑った。

「あっ、笑っちゃった。わたしの負けだね。劇に出るよ。出たら、心から笑えるようになれるかもしれないし」
といってまた笑った。
亜佐美もつられて笑った。心の棘が溶けていくような気がした。

                          おわり
posted by 土筆文香 at 21:02| 童話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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