2014年06月13日

笑い上戸(その1)

久々に創作童話を掲載します。
原稿用紙7枚の作品を2回にわたって連載します。
感想を聞かせてくださると嬉しいです。


          
笑い上戸(その1)

                                            土筆文香

アーハッハ イーヒッツヒ ウーフッフ
今朝も五年三組の教室は笑い声にあふれていた。さやかはハンカチで涙を拭きながら、おなかをかかえて笑っている。
「何がそんなにおかしいんだよ?」
 遅れて登校してきた亜佐美が、さめた目でさやかをみた。
「えっと、何がおかしかったんだっけ……忘れちゃった。アーハハハハ」
 
さやかは忘れたことがおもしろくて、また笑った。亜佐美はあきれながらも自然に顔がほころんでくるのを感じた。
さやかは一日に何回大笑いするんだろう。鉛筆が転がっただけで笑うのだからおめでたい性格だ。きっと何の悩みもないんだろうな。
亜佐美はいつも怒っていた。何をしていても両親から「勉強は?」といわれる。いい返せば「いいかげんにしなさい」としかられる。ちっとも話を聞いてもらえないのでふてくされ、まるで心に棘が生えたようになってしまった。
 秋の学芸会で三組は劇をすることになった。

 脚本は作家志望の棚橋さんが書いた『ジャックと笑う王女さま』笑い上戸の王女が主人公で、王女の笑いを止めた男が王女と結婚できるというストーリーだ。

 亜佐美は、笑い上戸の役にさやかを推薦し、クラス全員が賛成した。
「それでは、王女の役は柿本さやかさんに決定しました。柿本さん、いいでしょうか」
 学級委員の中本君がいった。 
また大笑いするだろうと、亜佐美は隣の席のさやかを横目でみていた。さやかは笑わなかった。こわばった顔で返事もせずにじっと机の角をみている。こんな顔のさやかをみたのははじめてだ。

「返事しなよ。さやかにぴったりの役だよ」
亜佐美がささやくと、さやかは口を一文字に結んで首を横にふった。
「どうする、大木亜佐美。柿本がやらないなら、お前やれよ」
「何であたしがぁ。じょうだんじゃない」
 亜佐美はげんこつで机をたたいた。
「推薦したんだから、責任持てよ」
 中本君がいうと、

「そうだ、そうだ。柿本がやらないんだったら、大木がやればいい」と声が上がった。
「それでは、主役は大木さんがいいと思う人」
 いっせいに手が挙がった。
「多数決で主役は大木さんに決まりました」
「多数決で決めるなんて、反対」
 亜佐美が中本君をにらんだ。

「やりたくないんなら、柿本を説得しろよ」
 中本君がいうと、また「そうだ、そうだ」の声が上がる。
「みんなもそう言ってるから、決定します」

大勢の人の意見が正しいとは限らないのに何でも多数決で決めるやり方に亜佐美は腹を立てた。
こうなったら何としてもさやかに主役をやってもらうしかない。

 次の日、亜佐美はさやか顔をみて驚いた。唇がへの字になっている。笑ってないときでも、いつも微笑んでいたのに……。
「さやか、劇に出たら学校中の人気者だろ」
亜佐美は一生懸命さやかをおだてた。
「さやかほどいい笑い方をするヤツはいないよ。いつもつられて笑っちゃうし」
posted by 土筆文香 at 19:58| 童話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月10日

選びとは

キリスト教では、「信仰を持つようになったのは、神様がわたしを選んでくださったからです」と言うのをよく耳にします。

たくさんある宗教をひとつひとつ詳しく調べて、どれがよいか自分で選んでキリスト教を信じることにしましたと言って洗礼を受けた人の話は聞いたことがありません。

選ばれるとはどういうことなのでしょう。選ばれなかった人はどうなるのでしょう。果たして自分は選ばれた人なのでしょうか……。と疑問を持つ人もおられるでしょう。

聖書を読んでいると、神様はご自分をあらわす(啓示する)神様だということがわかります。神様はご自分のことを「わたしはある」と自己紹介されました。

「わたしは、『わたしはある。』という者である。」(出エジプト3:14)

つまり、神様は存在する者であるということ。そして、アブラハムを選んで声をかけられたように、選びの神様であることがわかります。

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。(ヨハネ15:16)」

けれども、自分が素晴らしいから神様が選んでくださったと思ったとしたら、それは大きな間違えです。

アブラハムもモーセも神様から選ばれた者ですが、彼らの能力や性格によって選ばれたわけではありません。
むしろ、選ばれるのに値する人間ではないのに選んでくださることがすごいことだと思います。
そして、選んだ人が失敗したり、間違った道を歩んでしまっても神様は決して見捨てないと約束してくださっているのです。

わたしは「こんな弱くて、何のとりえもないわたし、どうしようもないわたしを選んでくださってありがとうございます」と神様に言っています。

ブログを読んでくださっているあなたへ

神様はあなたのことも選んでおられます。神様はあなたのことを愛しておられるからです

日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。ぜひご覧ください。
posted by 土筆文香 at 16:58| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月06日

神様は不公平ですか?

音をたてて雨が降っています。暑い日が続いていたので、嬉しい梅雨入りとなりました。

「信仰を持つとはどういうこと?」と聞かれることがあります。
水曜礼拝で、「神の語りかけを聞いて応答することが信仰を持つということです」と教えていただきました。

神の語りかけとはどういうことでしょう。信じている人には神の声が聞こえるのでしょうか……。そうではありません。
それなら、どのようにして神様は語りかけてくださるのでしょうか。そして、応答するとはどういうことなのでしょう。

人が生まれつき備わっているものや、自分で選んだり変えたりすることができないまわりの環境が、神からの語りかけになっているそうです。
この時代に日本人として生まれたこと、女性であること、両親、容貌、生まれつきの性格など……。

かつてわたしはすべてがいやで文句ばかり言っていました。とくに体が弱いことが不満でした。聖書に書かれている神の存在は知らなくても、大いなるものの存在は感じていましたから、そのお方に不平を言っていました。
他の人と比較して、自分が持ってない健康、容貌、能力が羨ましいと思い、「神様は不公平だ」言っていました。

聖書に示され、わたしを造ってくださった神様がどんなお方かわかったとき、神様はわたしにふさわしい要素を生まれる前から備えてくださったのだと知りました。どんな要素にも目的と意味があるのです。
たとえば、生まれつき体が弱いことは、じっとして体を休める時間が長いことによって、物事をじっくり考える習慣がつく。神様のしてくださったことをゆっくり思いめぐらすことができる。

いろいろな病気で苦しむことによって、病で同じような苦しみの中にある人を慰めることができるなど……。
神様は、マイナスと思われる要素でさえ、よいことのために備えてくださっているのです。

「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。(エペソ2:10)」

置かれた環境や毎日起きる色々な出来事、ほんのささいな日常の出来事の中にも神様からの語りかけがあります。
それを見逃さないようにしてしっかりと聞き、応答していきたいなあと思いました。

「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。私がひそかに造られ、地の深いところで仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。(詩編139:13-16)」
posted by 土筆文香 at 16:09| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月03日

わたしの自分史

真夏のような暑さが続き、もはや夏バテしています。

31日は神楽坂で児童文学者協会の総会があって、児童文学の友人と出かけました。
友人と自分史を書くことの意義について話しました。友人は「波乱万丈の人生を書くなら読者も惹かれて読むかもしれないけど、平凡な人生を書いて何になるの? それに詳しく書くと差支えのある人が出てくるかもしれないし……。」と言いました。

朝日新聞で連載されている林真理子氏の小説「マイストーリー(私の物語)」は、自費出版社の編集者の目から書かれています。死ぬ前に自分が生きた証として自分史を書き、本を作って遺したいという人が増えているそうです。

本が完成すると子や孫、知人、親戚、友人に配りますが、売れるということは少なく、余った本はいずれは捨てられてしまうそうです。
子や孫に伝えるという意味では出版価値はありますね。

『自分史とは何を書くのか?』というところから考えてみたいと思います。
生れてから現在に至るまでに起きた出来事を書いていくだけなら、それは記録にすぎません。

旧約聖書の列王記には、王の名が次々書かれています。その中には敵国と戦って勝ち、領土を広げたとか、水道を引いたなど功績をあげた王がいます。
王として君臨した期間はそれぞれで、たった数か月の王や50年も王座についていた人もいます。でも、聖書には王座についていた期間や、功績は重要視せず、その王が神様に対してどういう態度をとったかを中心に書かれています。
長く即位した王も短い期間王だった人も、その一生は数行で終わります。王が、律法(神様の教え)に忠実だったかどうか書かれているのです。

一昨日の礼拝メッセージでは「自分史」を書くように勧められました。使徒の働き26章1-23はパウロの自分史です。クリスチャンを迫害していたパウロがキリストに出会って変えられ、神から使命をいただいて福音を伝える者となったことが書かれています。
「自分の人生は神の愛の見本です」
と牧師先生が言われました。

神様がわたしの人生にどのように働いてくださったか、神様によってわたしがどのように変えられたか記すのが、わたしの自分史です。

2007年に日本クリスチャン・ペンクラブで10代〜40代の自分史を書きました。
その自分史は、母に対する思いが神様によって変化したことをメインテーマにして書きました。50代はまだ書いていませんが、神様がますますわたしのことを愛してくださり、導いてくださっていることを書きたいと思っています。

「しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです(Tテモテ1:16)」
posted by 土筆文香 at 16:33| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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