2014年03月23日

疲れた人、重荷を負っている人

今日は息子夫婦の第2子の予定日です。まだ連絡はありません。予定日より早く生まれるのだろうと思って、今日か明日かと待っていると、期待と不安でいっぱいになってドキドキしてきます。(わたしが産むわけではないのですが……)

立ち合い出産で、パパとヒックンに見てもらうと言っていましたが、タイミングよく見ることができるのでしょうか……。
産まれたら我が家でヒックンを預かることになっているので、主人は先週から仕事を休んで待機しています。
わたしにできることは出産の無事を祈るだけです。生まれる日は神様が定めてくださいます。


今日の礼拝メッセージは、2年間韓国で宣教師として働いて帰国されたA先生がお話ししてくださいました。聖書箇所はマタイ11:28〜30でした。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます(マタイ11:28)」

わたしというのはイエス様です。イエス様のところへ行けば疲れが癒され、重荷をおろすことができるといっているのです。


わたしは努力することが一番大切だと教えられて育ちました。かつては努力して何かを勝ち取っていくことが奨励される社会でした。今もその傾向はありますね。
わたしが子どものころはそれが顕著で、漫画でも根性ものが流行っていました。

わたしは体が弱かったので、頑張りがききませんでした。高校生の時、いつもは10時に寝ているのに試験前に12時近くまで起きて勉強したら、試験の当日熱を出して欠席する羽目になり、その日の試験は0点にされてしまいました。(診断書を出してもだめでした)

まとめて勉強するのが無理なら、日ごろから努力すればいいんだと思って、単語カードにびっしりと覚えることを書きこみ、常に持ち歩いてトイレの中ででも覚えていました。そのかいあって高校ではいい成績をとることができました。
 
幼稚園教諭を目指して、保育科の短大でも一生懸命努力していい成績をとったのですが、幼稚園に勤めたら、学校の勉強がほとんど役に立たないことを知り、愕然としました。自分の無力さをいやというほど知らされました。

勤めて2年ほどたったとき、重荷で押しつぶされそうになっていました。疲れ果て、よろよろと教会の門をくぐったのでした。
聖書の言葉通り、イエス様は休ませてくださいました。それまで何でも自分の力で解決しなくてはと緊張していましたが、イエス様に頼ることにっよって緊張を緩めることができました。すると、心からほっとできました。


「休ませる」という言葉は、竪琴の弦をゆるめるところからきているそうです。「はりつめ、切れそうになっていた弦をゆるめると、重荷をおろすことができ、緊張がほどけるのです。
そして魂の深いところに休息が与えられます」
とA先生が言われました。

イエス様はわたしたちを休ませてくださるだけではありません。
「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです(マタイ11:29-30)」

休息を与えた後、イエス様はわたしたちを成長へと導いてくださいます。
くびきとは、牛や馬を制するのに使われた物です。体に合ったくびきをつけられると、重荷が軽くなります。

イエス様は張りつめた弦のようになった魂を休ませ、美しい音を奏でられるようにしてくださいます。くびきを負ってイエス様から学ぶことによって、わたしたちは成長させていただける
ことを教えていただき、心から感謝しました。
posted by 土筆文香 at 17:31| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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