2014年07月16日

天を見上げて

13日に教会学校でステパノの殉教のお話をしました。お話の準備をしていて考えさせられたことを書かせていただきますね。

最初の殉教者と言われるステパノは、知恵と御霊(みたま)によって人々に福音(イエス様のしてくださったこと)を伝えていました。

ユダヤ人たちの中でステパノを憎む者たちがいました。ステパノをなんとか言い負かしてやろうと議論するのですが、ステパノは知恵と御霊によって語ったので、対抗できませんでした。それで嘘の証言によりステパノをつかまえ、裁判にかけました。

憎しみに満ちた人たちの前に立たされたとき、ステパノの顔は御使(みつか)いのように見えたそうです。何の悪いこともしていないのに人々から貶められ、憎まれ、殺されそうになっているときになぜ穏やかでいられたのでしょう。

ステパノは大祭司の前で旧約聖書に書かれているアブラハムから始まるイスラエルの歴史を淡々と語ります。それは聖書(使徒の働き7章)3ページに渡って書かれています。

ステパノが人々の罪を指摘すると、人々は激しく憎悪しました。
聖書には「人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした(使徒の働き7:54)」と書かれています。

一方ステパノは聖霊に満たされて「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。(使徒7:56)」と言いました。人の子とは、イエス様のことです。

人々はいっせいにステパノに殺到し、ステパノを町の外に連れて行って、石打ちの刑にしてしまいます。

石打ちの刑とは重罪を犯した人に石を投げて殺す刑罰で、姦淫の女が石打ちの刑にされそうになっているとき、イエス様が助けたことが福音書に書かれています。

ステパノは石を投げられているとき、天を見上げて「主イエスよ。わたしの霊をお受けください」と言い、「主よこの罪を彼らに負わせないでください」と言って、息を引き取りました。
イエス様が十字架上で言った言葉を思わせますね。

このような立派なステパノの姿をみると、自分とあまりにもかけ離れているので、引け目を感じてしまいます。
わたしだったら、憎しみの込められた目で見られたら、こちらもそういう目で見返してやりたくなるし、石を投げている人たちに恨みを抱くだろうなと思ってしまいます。

なぜステパノはこのような死に方ができたのかと考えながら何度も聖書を読んでいるうちに、気づいたことがありました。

ステパノに対して聖書は『恵みと力とに満ち』『知恵と御霊に満ちていた』『聖霊に満たされていた』と書いています。

恵みも力も知恵も聖霊(御霊)もステパノが努力して勝ち取ったものではなく、神様が与えてくださったものです。これらはキリストを信じる者のうえに降り注がれているのですが、両手を広げて受ける人と、下を向いていて受けようとしない人がいるのではないかと思います。

ステパノは、人々の憎しみにさらされていましたが、人々を見ずに天を見上げていました。その証拠に「天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」と言っています。
いつも神様を見上げることによって、神様から恵み、力、知恵、聖霊(御霊)をふんだんに受けていたのでしょう。だから、石打ちの刑を受けても恐怖を感じず、自分を殺そうとしている人々を愛することができたのではないでしょうか。


「こんなふうにしてステパノが天に召されていきました」と子どもたちに話すと、悲しそうな顔をして「ステパノは死んじゃったの?」と尋ねた子がいました。
胸が締め付けられるような気持になりました。でも、ステパノは天国に迎え入れられたのです。

そのあと、日本でキリスト教迫害が起こって多くの人が殉教していったことを話し、「いのちよりも大切なものがあります。それを守って死んでいった人たちは天を見上げ、平安な心で召されていったことでしょう」と話しました。
わたしも天を見上げて歩んでいきたいと思いました。
posted by 土筆文香 at 20:59| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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