2013年01月21日

雲の柱が動くとき

昨年12月に日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)のレターに載せるエッセイを募集していました。今年の抱負を400字で書くのです。
年が改まると抱負を聞かれることが多いのですが、できればパスしたい気持ちになります。抱負を掲げても、2、3か月もすると忘れ、年の終わりになって、ああ……年の初めにはこんなこと言ってたんだ……と思い出す始末です。

立派なことを掲げれば掲げるほど、できなかったときの落胆が大きいので、今年は特別大きなことを掲げませんでした。

タイトルは「雲の柱が動くとき」です。文章の内容からすると「雲の柱が留まって」になりますが、もうすぐ動き出す予感がしたので、そういうタイトルになりました。
まずは紹介します。
                  
雲の柱が動くとき


常に何かを書いていた。昨年はOBIの卒業論文、長編児童小説と短編童話数編書いた。
長編を書き終え卒論を提出したら、そのあと書けなくなった。この20年、ひとつの作品を書き上げると、一週間もしないうちに次の作品を書きはじめていたのに……。

創作するとき、ストーリーが結末まで一気に思い浮かび、それから書きはじめる場合と、結末はわからないが、書いているうちに何とかなると思って書きはじめる場合がある。

後者の場合は迷いがあり、たいてい失敗する。未完のまま放り出してしまうこともある。

前者はゴールが決まっているので、迷いなく書ける。神様がストーリーを与えてくださったからだ。

雲の柱が留まっているときは、じっと留まったイスラエルの民のように私も待つことにする。雲の柱が動くとき、新しい物語が生まれる。今年は待つ年になるのか、再スタートの年になるのか、神様だけがご存じである。



雲の柱というのは、旧約聖書の出エジプト記に出てきます。イスラエルの民はエジプトで奴隷のようにこき使われ、虐げられていました。民の叫び声を聞いた神様は、モーセという指導者をたててイスラエルの民をエジプトから脱出させました。

イスラエルの民は、神様が与えてくださるという約束の地を目指して旅をしました。何もない荒野を旅するイスラエルの民が迷わないように、昼は雲の柱、夜は火の柱をたて、柱が動くと民はそのあとについて進み、留まると天幕を張って何日も宿営をしました。そのことを題材として書いたエッセイです。
 
雲の柱まかせだなんて、なんと主体性がない……。自分の意志はないのか? と思われる方もいると思います。自分の意志と力で、努力で勝ち取っていくべきなのにこれじゃ他人任せじゃないか! と言う人もいるでしょう。
 
他人任せといっても、人に任せるわけではありません。任せる方が神様だということに注目してほしいのです。神様に力をいただかなければ何もできないわたしなのです。ですから、神様のGOサインを待っていたのです。
自分の思い、感情の高まりに任せて出発するのではなく、神様の導きを待つというのは、簡単なようで、実は難しいことです。進むより留まる方が忍耐を必要とします。

このエッセイを書いたのは昨年の12月16日です。そして、今年の1月10日ごろ雲の柱が動き出しました。最初は動いたのかどうかわかりませんでした。自分勝手な思い込みということもあるので、すぐには書きはじめませんでした。そうしたら、何度も夢を見ました。書くことを促されている夢でした。

神様は、意外にも早くGOサインを出してくださったのです。新しい作品を書きはじめました。ものすごくスローペースなのですが……神様の栄光をあらわすことができますように。

posted by 土筆文香 at 16:25| 日本クリスチャン・ペンクラブ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月19日

あなたは高価で尊い

しなければならないことが山積みです。今月中にしなければならないことを書き出したら10項目以上にもなったので、優先順位をつけてやっています。

こんなにたくさんあって間に合うのだろうか……という不安も起きてきます。でも、今日のことだけできたら、その後のことはまだ心配しないようにとOBIで教えていただいたので気が楽になりました。
今日は気分転換に長めの散歩に出かけました。

5月5日のブログにJCPの課題文、「私と聖書の言葉」(800字エッセイ)を「存在価値が認められて」と題して紹介しました。あれから何度も推敲したら、ずいぶん違った文章になりましたので改めて紹介させていただきます。(題名も変えました)


あなたは高価で尊い
     
中学生のころ、わたしは自分が人間として劣っていると思っていました。クラスメイトにバカにされたり、嫌われることを極端に恐れて、自分の意見を言ったり感情を表したりすることがありませんでした。ですから非常に無口で、最も目立たない生徒でした。
 
なぜそれほどまでに劣等感が強く、すべてのことについて自信がなかったのかわかりません。人間失格のように思っていたわたしは、こんな自分が存在していていいのだろうか……と思い悩んでいました。

高校生になってから、自分を変えようと努力して積極的にふるまいました。でも、努力ではどうにもなないことが多く、自分の存在価値について疑問を抱いたままでした。

大人になっても、人からほんの少し批難されただけで人格のすべてを否定されたように思い、何日も食事がのどに通らないほど落ち込んでいました。

そんなわたしが自分の意見をはっきり言えるようになり、人前で感情を表せるようになったのは、聖書の言葉に出会って、自分の存在価値が認められていることがわかったからです。
『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ四十三:4)』このみ言葉がわたしを根底から変えてくれました。

「神様、わたしを高価で尊いと言って下さるのですか。愛していると言ってくださるのですか。こんなに欠点だらけなのに……」
わたしは泣きながら神様に尋ねました。

「そのままでいいんだよ。わたしの目には、あなたはどんな宝石より高価でかけがえのない存在なのだ」と神様は言って下さいました。

 存在価値が認められて、自分が生きていていいことがわかり、心から安堵しました。人にどう思われようと気にならなくなりました。

天地万物を造られた方が、このわたしを無条件で愛して下さっているのですから。


かつてのわたしが、なぜ存在していてもいいのかなどと考えたのか……については色々思い当たる節があります。それについては別の機会に書かせていただきます。

posted by 土筆文香 at 21:12| 日本クリスチャン・ペンクラブ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月05日

存在価値が認められて

3日は大雨でしたが、息子一家と車で大洗水族館に行ってきました。GW中の息子の休みが3日と6日だけだというので、3日に出かけることにしました。

水族館はとても混んでいてゆっくり見学できませんでした。イルカショーも一時間以上並ばないと見ることができないと言われて、並ぶのをあきらめました。(下の水槽で水中でのようすを見ることができてよかったです)

キッズコーナーに行くと、ヒックンは喜んで遊具に登って遊び始めました。このようなキッズランドにひとりで入れるようになったのはつい最近のことです。

帰りに「何が楽しかった?」と聞くと、「キッズランド!」水族館よりイオンに行った方がよかったのかな?……。


日本クリスチャン・ペンクラブで「私と聖書の言葉」の800字エッセイを書く課題が出ています。今日になってやっと書き始めました。
下書きを紹介します。このあと20回ぐらい推敲するので、出来上がりの文章はだいぶ違ったものになりますが、テーマは同じです。


存在価値が認められて


○常に何かを心配し緊張している。
○社会人としての資格が不十分で劣っていると思っている。
○バカにされたり拒否されたりするのが恐ろしくて友人にも遠慮する。
○傷つくことを恐れて生活の場を狭めたりして異常なほどに引っ込み思案になる。

これらは回避性人格障害の特徴なのだそうです。これを読んで、すべてが中学生のころのわたしに当てはまっていると思いました。2番目は、社会人ではなく人間としての資格ですが……。

わたしは非常に劣等感が強く、人間失格のように思っていました。存在理由がわからず、生きる価値がないと思っていました。

なぜ自分が劣っていると思ったのかわかりません。すべてに自信がなく、何をやってもだめだと思い込んでいました。

友達にバカにされたり、嫌われることを恐れて、自分の意見や考えを言うことができませんでした。授業中の手を挙げての発言など、もってのほかです。そんなことするくらいなら死んだ方がましと思っていたほどですから、相当の引っ込み思案です。

高校生になってからは、自分を変えようと努力して積極的にふるまっていました。でも、自分の存在について疑問を抱いたままでした。

大人になっても、誰かからほんの少し批難されただけで人格のすべてを否定されたように思い、何日も食事がのどに通らないほど落ち込んでいました。

そんなわたしが根底から変えられたのは、『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)』という聖書の言葉でした。

天地万物を造られた神様は、わたしたち人間のことも造って下さいました。造っただけではなく、母親の胎の中にいるときから愛を注いで下さいました。神様は片時も目を離すことなくご覧になり、育み、導いてくださいました。その神様がわたしのことを高価で尊いと言い、大切に思って下さるのです。

立派に生きられなくても、欠点があっても、存在そのものが尊いと言って下さる神様。
そのままでいいと言って下さる神様。

存在価値が認められて、自分が生きていていいのだとわかって、心から安堵しました。
人を恐れず、自分の意見が言えるようになったのは、この聖書の言葉に出会ったからです。

posted by 土筆文香 at 21:12| 日本クリスチャン・ペンクラブ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月18日

ペン仲間と共に

体調を崩してから2週間になり、だいぶ快復してきましたが、今度は胃の調子が悪くて力が入りません。眠くてたまらないのは陽気のせいでしょうか……。このところずっと早寝しています。

わたしが所属している日本・クリスチャン・ペンクラブ(JCP)は、今年60周年を迎えます。10月にその記念会が行われますが、わたしはその実行委員のひとりとして奉仕させていただいています。

日本クリスチャン・ペンクラブに入会してからちょうど10年。わたしにとっても節目となります。
今日は「クリスチャン・ペンクラブとわたし」というテーマで書いた800字エッセイを紹介します。


     
ペン仲間と共に
         

わたしが初めて日本クリスチャン・ペンクラブの集会に出席したのは、50周年記念会のときでした。
その10年ほど前から神様の愛を伝えたくて、ひとりで童話を書いていました。クリスチャンで童話やエッセイを書いている方とお会いしたいという思いはありました。JCPの存在も知っていたのですが、子どもが小さくてお茶の水までは行けませんでした。
 
JCP50周年記念としてあかし文章を募集していることを知り、救いのあかしを書いて送りました。それが入選して、表彰式があるというので、お茶の水クリスチャンセンターまで足を運びました。
 
そこには、信仰のあかし文章を書いている方たちがおられました。初めて出会った方ばかりなのになつかしく、長い間旅をしてようやく故郷にたどりついた気がして胸が篤くなりました。居場所が与えられたように思い、さっそく入会しました。
 
それから隔月の例会と童話エッセイの集いに出席するようになりました。夏期学校にも参加しました。
 
JCP例会では必ず礼拝があります。そのメッセージで信仰が強められました。文章の書き方も学びました。仲間たちの書く姿勢、スピリットに触れて、あかし文章を書く意欲が高められました。

「あかしする者は天にあるのですから、一字でも一句でも血の滴(したた)るようなペンであかしすればいいのです」と前理事長、満江先生の文を読んではっとさせられました。

血の滴るようなペンであかしするとは、自分の弱さも醜さもさらけ出して、痛みを伴いながら書くということではないでしょうか。そのとき、人の心に届く文章が書けるのだなあと思いました。

痛みを感じながら書くのは辛いことですが、ペン仲間がいれば耐えられます。何よりイエス様がわたしのために血を流してくださったことを想いながら、ペン仲間たちと共にあかし文章を書き続けていきたいです。


posted by 土筆文香 at 17:05| 日本クリスチャン・ペンクラブ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月26日

つながっているだけで

昨日は洗礼式があり、13名もの方が洗礼を受けました。13人中7人が中高生だったことは驚きです。そのうちの何人かは教会学校の小学科で受け持った子どもたちです。彼らの新しい歩みの祝福をお祈りしました。

一昨日はJCP(日本クリスチャン・ペンクラブ)の例会で御茶ノ水に行ってきました。
礼拝ではM姉がヨハネ15:1〜5から『つながって実を結ぶ』という題で奨励して下さいました。紹介させていただきます。

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 今年の初めに「わたしはわたし自身のために、わが僕ダビデのために、この都を守り抜く。(U列王記20:6)新共同訳」という御言葉を与えられました。

ペンクラブは理事長の池田先生が病に倒れて危機的状況になり、他にも関わっているところで大きな危機がありましたが、この御言葉からそれぞれのところで必ず守られるという確信が与えられました。

震災の時、「絆」「つながる」「つなげよう」という言葉が流れましたが、これらは一緒に立ち上がろうという心意気を表す言葉で、古くから日常的に使われている言葉です。

今日読んだ聖書箇所は新共同訳聖書では「わたしにつながっていなさい」と書かれ、新改訳では「わたしにとどまっていなさい」と書かれています。

ひとつひとつはバラバラでも、つなげると全く違う働きができます。

イエス様はぶどうの幹であなたがたは枝です。幹と枝は対等ではなく、主従の関係です。幹は枝に実を結ばせる役割をします。枝は幹につながっているだけでいいのです。

幹と枝のつながりは有機的です。イエス様の幹には呼吸のように、いのちと愛が流れています。つながっていると、時が来て実がなります。
つながるとはとどまることです。せっかくつながっていても幹から断ち切って離れてしまえば枯れます。とどまり続けることが大切です。

わたしたちは、あかしの文章でJCPにつながっています。1タラントには1タラントの働きがあります。1タラントでもあかし文章を書くという使命があります。JCPにとどまり続けて叱咤激励し、祈りながら書き続けていきましょう。JCPにもいのちと愛があふれています。
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ヨハネ15章はイエス様がイエス様と私たちの関係をぶどうの幹と枝にたとえて語られた箇所です。イエス様につながって、とどまり続けることの大切さを再確認しました。

ときどき、わたしにはどんな実がみのっているのかな? と考えることがあります。まだ全然みのっていないかもしれないと暗い気持ちになるときもあります。でも、立派な実をみのらせようと願っても自分の力ではみのらせることができないのです。

でも、『枝は幹につながっているだけでいいのです。』と聞いて、そのとおりだ!と思いました。実をみのらせてくださるのはイエス様ですから、みのらせようと努力する必要はないのです。イエス様につながり続けることだけを考えていればいいのです。

『1タラントには1タラントの働きがあります』という言葉にも励まされました。
あの人はタラント(才能)がたくさんあるけれど、わたしは少ししかないから何もできない……。と、人と比較して落ち込むことがあります。

でも1タラントは当時の6000日分の賃金だそうで、そんなにたくさんのものを預けられているのに何もできないなんて言ってたらいけないなあと思ったのでした。

礼拝のあと、800字エッセイ「私と東日本大震災」の合評をして実りある時間を過ごしました。

posted by 土筆文香 at 21:18| 日本クリスチャン・ペンクラブ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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