2014年03月17日

つらいとき。不安でたまらないとき

昨日の礼拝では使徒の働きからメッセージを聞きました。使徒の働きの中で神様がパウロに語りかけたことが4回書かれています。

1回目は、パウロがクリスチャンを迫害しているとき、イエス様の声を聞いたのです。その声を聞いてパウロは回心しました。

2回目は、エルサレムで途方に暮れ『主よ、私はどうしたらよいのでしょうか』と尋ねると、「行きなさい」という神様の声を聞きました。
神様はパウロを異邦人伝道に遣わすと言われました。

どうしたらよいかわからないとき、生きる意味がわからないとき、神様に問いかけることが大切なのだと思いました。

3回目はコリントの町で説教をしたときです。パウロは妨害を受けました。困難の中で意気消沈している夜、神様の語りかけを聞きました
「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。……(使徒18:9-10)」


4回目はエルサレムに帰ってきたとき、母国のユダヤ人に理解されず、誤解され仲間の裏切りにもあい、苦しみました。絶体絶命のとき「勇気を出しなさい(使徒23:11)」と語りかけられました。

パウロに何回も語りかけてくださった神様は、今も生きておられ、わたしたちに語りかけてくださいます。

わたしはつらいとき、神様にそのつらさを訴えます。もちろん神様は、わたしのつらさをわかっておられるのですが……。それでも泣きながら、思いのすべてをぶつけることがあります。
不安でたまらないときも、「神様、不信仰なわたしを赦して下さい。けれども心が騒ぎ、心配でならないのです。どうしたらいいのですか?」と祈ります。

そんなとき必ず神様が応えてくださいます。
「だいじょうぶだよ。わたしはあなたと共にいるから」という語りかけが聞こえてきます。音声として聞こえるのではなく、心に直接届くのです。すると、今まで不安と恐れでどうしようもなかったことが嘘のように、平安が訪れます。

それは、寒さに震えているとき温かな飲み物を飲んで、最初は口の中、次に喉、胃、そして全身がじんわりと温まるように気持ちがリラックスして、これ以上の安らぎはないと思えるほどになるのです。この平安は、神様の下さる嬉しい贈り物です。


「わたし(キリスト)は、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。(ヨハネ14:27)」

「もし、眠れない夜があるなら、神が祈れと招いておられるのです。」

牧師先生が紹介してくださった三浦綾子さんの言葉です。

posted by 土筆文香 at 21:08| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月11日

がっぴょうけん

8日、日本児童文学者協会主催の第1回『がっぴょうけん』が代々木の国立オリンピック記念青少年総合センターで開かれたので参加してきました。

『がっぴょうけん』とは日本全国の会員が原稿を持ち寄り、互いに合評して書く力を鍛える「合評創作研究会」です。
昨年、「がっぴょうけん」のお知らせを見たとき、迷いました。プロの作家や編集者、出版社の方たちも参加されると聞いて恐ろしかったからです。それでも、2年前から書いている長編をみていただきたいという思いはありました。祈っているうちに原稿を提出しようという思いが募り、エントリーしました。

長編の部は2グループあって、1グループ5作までしか受け付けられません。申し込み順に受け付けということなので、申込日の午前中に郵便局へ行きました。早く申し込んだかいがあって、原稿提出者のひとりになりました。
あらかじめ原稿を送りあってって、ほかの方の作品を読んでおきます。力作ばかりで、圧倒されました。その日を待つのは緊張の日々でした。

人の評価が絶対ではありませんが、橋にも棒にもかからない作品という評価を受けたら、童話や小説を書くのはもうやめにして、エッセイだけ書くことにしようと、作家生命を賭けての参加でした。

長編の部Aは、参加者16名でした。時間は13時から17時まで。1作品45分ぐらいかけてじっくり話し合います。厳しい評価もありますが、納得できることばかりです。

わたしの作品は意外にも高く評価されました。時代小説なので、言葉遣いの注意や歴史的裏付けをとらなくてはいけないことなどを教えていていただきました。
出版社の方は、120枚という長さが中途半端なので、半分の長さにして絵本のようなかたちにするなら出版できると言ってくださいました。

でも半分にすると作品の持ち味がなくなってしまうのでだめという意見が出ました。確かに半分にはできない作品です。

いつか用いられる時がくるかもしれないので、細かいところを直して完成させたいです。

ほかの方の作品の合評もすごく勉強になりました。充実した時間でした。長い作品を読んでいただけただけでもありがたいのに、丁寧に読んでもらい、貴重なアドヴァイスをいただけて感謝しました。

がっぴょうけんが終わった後、上野駅で待ち合わせして姪を土浦に連れてきました。
姪は高校3年生です。受験も卒業式も終わったので泊りがけで来ました。9日は一緒に教会へ行くことができました。

昨日は娘とふたりでクッキー作りをしていました。今日はふたりで買い物に出かけています。

日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。わたしのエッセイも掲載中です。ぜひごらんください。
posted by 土筆文香 at 16:54| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月17日

奇(くす)しいこと

先週の火曜日から体調をくずしていました。熱は上がったり下がったりで、最高でも37.5℃でしたが、ずっと体がだるく必要最低限のことだけして横になっていました。

前の週に主人がB型インフルエンザにかかったので、念のため翌日病院へ行ってインフルエンザの検査を受けましたが、結果は陰性でした。

土曜日にはよくなるだろうと思ったのですが、体調が悪く、一時間も起きてられません。

いままで風邪と思っていて副鼻腔炎だったことが2回。肺炎になったことが2回あるので週明けもこんな状態だったら総合病院へ行かなくては……と思っていました。

それにしても日曜日に教会へ行けないのはつらいです。わたしにとって礼拝出席が何よりも喜びになっているからです。
それに16日は、福井達雨先生が滋賀県から来られて、メッセージと講演をしてくださるのです。ずっと楽しみにしていました。

15日夜は、翌日元気になることは不可能だと思われるほど具合が悪く、床の中で癒してくださいと祈りました。
祈る前は不安でしかたありませんでした。

でも、祈っているうちに、『神さまはわたしの体の細胞のひとつひとつを造り、その状態を知っておられるのだ。すべておまかせしよう。』と思ったら平安が与えられました。
翌日は、なんと元気に起きられ、教会へ行くことができたのでした。

それから心配されていた雪については、関東の他県は先週と同じように大雪だったのに、土浦(茨城県)は雪ではなく雨が降り、この前積もった雪もほとんど溶けてしまいました。

「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。(詩編139:13-14)」

まだ長時間パソコン作業をすると疲れるので、福井達雨先生のメッセージの感想は、次回書きますね。
posted by 土筆文香 at 17:03| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月31日

心傷ついたとき

かつてわたしは、自分のことを傷つきやすく感受性の強い人だと思っていました。色々なことで傷つき、ボロボロになって可愛そうと自己憐憫の思いを抱きながら生きてきました。

ところが、あるとき傷つくことは悪いことではないと気づかされました。
また、わたしだけがたくさん傷ついていたのではなく、ほかの人もわたしの言葉で傷ついていたことも知ったのです。

「こころの散歩道」堀 肇著 いのちのことば社
の本の中にある一文を紹介します。

「傷つけられ心に痛みを覚えるということは、確かにつらいことではありましが、必ずしもすべてがマイナスばかりではなく、視点を変えてみれば、プラスとも必要とも考えられる面もあるように思えます。」

「人から傷つけられて心が痛むという感覚も一種の安全装置とも言えます。もし痛みを感じる心がなければ、人が何で傷つくかわからないということにもなるわけです」


傷つくことは悪いことではないと伝えたくて詩を書きました。


               心傷ついたとき


心傷ついたとき
静かに痛みを味わおう
傷つくという感受性があることを喜ぼう
傷つくことは悪いことではない

人の心を傷つけてしまったとき
素直にあやまろう
許してもらえなくても 
自分を攻め続けるのはやめよう

同じ言葉でも
相手の心の状態、心の傷跡
ときや場所、場合によって
受け止められ方が違うのだから

乏しい想像力だから
どんな言葉が相手を傷つけ、どんな言葉が喜ばれるのか予想できない
もし自分だったら……と考えて言葉を発しても
喜ばれるとは限らない

相手をどんなに大切に思っていても
相手が喜び、励まされることを願っていても
かえって傷つけてしまうことがある
相手と自分の感性は違う

どんなに深い傷を負っても負わせても 
絶望的になることはない
すべてを知っていてくださるお方がいるから
心の傷を癒してくださるお方がいるから


わたしのHP「生かされて…土筆文香」詩のページ更新しました。ご覧ください。

posted by 土筆文香 at 17:28| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月17日

情熱

昨日は今年初の我が家での家庭集会でした。
牧師先生と6人の方がきてくださいました。

マルコ14:32-42の学びでしたが、あまりにもたくさんのことを教えていただいたので、書ききれません。心に留まったことを書かせていただきます。


パッションという映画があります。イエス・キリストが処刑されるまでの12時間を2時間のドラマにして描かれています。数年前に観ましたが、十字架の場面があまりにも凄惨なので目を開けていられず、途中からずっと下を向いていました。

鞭で打たれ、傷ついているイエス様が十字架につけられるときは、「もうやめて!」と叫びたくなりました。

でも、もしイエス様が助けられて十字架刑をまのがれたら、どうなったでしょう……。
わたしたちがこのような苦しみを受けなくてはならなくなるのです。

どんな人間でも一度死に、死後にさばきを受けることが定められています。
「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように(へブル9:27)」
にもかかわらず、イエス様を信じれば、さばかれずにすみ、永遠のいのちをいただけるようになりました。

イエス様が代わりにさばきを受けてくださったからです。

「イエス様が人類の罪を背負って十字架にかかってくださった」ことがどういうことなのか考えると、こんなすごいことをしてくださったイエス様にどれだけ感謝してもしきれないぐらいの思いでいっぱいになります。

パッションとは「情熱」という意味です。神様が、わたしたち人間を愛するあまり、大切なひとり子イエスを十字架につけて見捨てるということをしてくださった情熱。神様の愛の情熱がひしひしと伝わってきました。

十字架につけられているイエス様のことを考えた時、自分はどこにいたのでしょう。傍観者として少し離れたところに立っていたのではないでしょうか。
十字架につけるため掌にくぎを打ち込むその手は、パッションの監督、メル・ギブソン自身の手なのだそうです。十字架につけた人は自分であると告白しているのです。

そして、苦しみもだえるキリストの姿もまた自分なのです。本当は自分がこのような苦しみを受けなくてはならなかったのだと思うようにと言われて、胸が篤くなりました。

また、十字架にかかる前夜、ゲッセマネでイエス様が苦しみもだえながら
「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし私の願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」と、祈りました。

「この杯をわたしから取りのけてください。」というのは、イエス様が生身の人間としてこられたという証拠で「しかし私の願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」というのは、イエス様がまさに神であるという証拠だと教えていただきました。

あなたのみこころのままにと祈ってくださったから、わたしたちは救われたのですね。

「わたしはあなたに何をもって感謝を表せばいいのだろう」と賛美曲「真昼のように」の歌詞が頭の中に流れています。

まひるのように

いのちをかけて愛を示された
イエス様に出会い 全てが変わった

私はあなたに何をもって、
感謝を表せばいいのだろう

真昼のように輝きながら
あなたの愛を伝えたい

イエス様のように輝き続ける
世の光にしてください

posted by 土筆文香 at 21:08| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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