2014年06月24日

原因さがし

今日は午前中から激しい雷雨がありました。都内では雹が降ったとか……。テレビではどうしてこんな天気になるのか一生懸命説明していましたが、穏やかな天気に変えることは出来ません。大自然の前に人は何もすることができませんね。


先日の礼拝メッセージは、先週の続きで使徒の働き28章から語られました。
誰かが不幸な目に遭うと、その人の行いが悪かったからじゃないかとか、その人の親が悪いことをしたのではないかと原因探しをする人がいます。不可抗力の事故に逢うと、バチがあたったのだという人がいます。
そんな声が聞こえてくると、二重に苦しむことになります。

2000年前も、そのようなことがありました。パウロたちは難船してようやくのことでマルタ島にたどりつきました。
火にあたっていると、マムシが這い出てきてパウロの手に取りつきました。それを見た島の人は、パウロが人殺しだからバチが当たったのだと考えました。

でも、パウロはパニックにならず、落ち着いて対処しました。そして、何の害も受けませんでした。
このことは、以前イエス様が言われた約束の成就といえます。
イエス様は「信じる人々には次のようなしるしが伴います。(マルコ16:17)」と言われ、「蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず……(マルコ16:18)」と約束してくださいました。 

今日こうして生きていることが神様の約束の成就だと聞いて、ジーンときました。乳がんの手術を受けてから11年。こんなに生きられるとは思いませんでした。家事ができ、食事ができ、教会へ行け、こうしてPCの前にすわっていられる幸いを感謝せずにはいられません。


イエス様の弟子たちも因果応報的な考えを持っていたようです。弟子たちは、生まれつきの盲人を見て尋ねました。
「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」
イエスは答えられた。
「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」(ヨハネ9:2-3)


『神のわざが現れるため』という答えに感動します。

不慮の事故、突然の病気、災難が起きると、パニックになってしまいます。
何も悪いことをしていないのになぜこんなことが起きるの? と理不尽さに腹を立てます。
でも、神のわざが現れるために起きたことだとしたら、不幸と思われる出来事も実は不幸ではなく、幸いな出来事になります。

渦中にいるときはわからなくても、後に「よかった」と思える日が必ず来ると、神様が約束してくださっているように思います。
「恐れず、神に信頼して歩むとき、神の確かな守りと支えを知るでしょう」という牧師先生の言葉に深くうなずきました。
posted by 土筆文香 at 21:09| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月17日

カイザルの前に立つとき


一昨日の礼拝メッセージは、使徒の働き27章から語られました。この章にはパウロがローマにおくられるときの船旅のようすが詳しく書かれています。

2000年前の船がどのようなものだったかわかりませんが、航海には危険が伴うものです。
地中海は冬季の嵐のため、11月から3月までは航海が閉鎖されていました。この時は、10月であっても航海の危険な時期でした。

でも、船長たちは冬を過ごすのに適当な港へ行くと言って、パウロが危険だと言うのを無視して出帆しました。パウロにはたくさんの航海の経験があり、難船したこともあったので、危険を察知していたのですが、聞き入れてもらえませんでした。

まもなく船は暴風に巻き込まれ、漂流することになりました。
聖書には「吹き流されるまま」(15節)、「積荷を捨て始め」(18節)、「太陽も星も見えない日が幾日も続き」(20節)、「激しい暴風がふきまくる」(20節)、「助かる最後の望みも今や断たれようとしていた」(20節)、「長いこと食事をとらなかった」(21節)と書かれています。

船に乗っているほとんどの人たちは、助かる望みを絶たれ、食事をする元気さえなくなっていたようです。

そんな中、パウロは力強く語りました。「元気を出しなさい」(22節)「いのちを失う者はひとりもありません」(22節)「私たちは必ずどこかの島に打ち上げられます」(26節)「食事をとることを勧めます」(34節)

なぜパウロはそのように言えたのでしょうか。それは神様の声を聞いたからでした。
神様はパウロが必ず助かって、カイザルの前に立つときがくると約束してくださいました。

神様の約束は反故にされることがありません。神の言葉を信じたパウロは、絶望している人たちを励ますことができたのです。

実際、船は900キロも流されましたが、マルタ島に漂着しました。いのちを失った人はだれもいませんでした。

「絶望したとき、神の言葉を待ち望むことが大切です」と牧師先生が言われました。

わたしは、メッセージを聞いて、それが自分に語られているように思い、胸騒ぎがしました。
「約束が遂行されるときがくる。そのとき、あなたはカイザルの前に立つ。そのときは恐れずに信仰の証しをしなさい」と、神様が語りかけてくださったのです。

約束とは何か、カイザルとは誰なのか、はっきりわかりませんが、心に留めたいと思います。
posted by 土筆文香 at 15:58| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月10日

選びとは

キリスト教では、「信仰を持つようになったのは、神様がわたしを選んでくださったからです」と言うのをよく耳にします。

たくさんある宗教をひとつひとつ詳しく調べて、どれがよいか自分で選んでキリスト教を信じることにしましたと言って洗礼を受けた人の話は聞いたことがありません。

選ばれるとはどういうことなのでしょう。選ばれなかった人はどうなるのでしょう。果たして自分は選ばれた人なのでしょうか……。と疑問を持つ人もおられるでしょう。

聖書を読んでいると、神様はご自分をあらわす(啓示する)神様だということがわかります。神様はご自分のことを「わたしはある」と自己紹介されました。

「わたしは、『わたしはある。』という者である。」(出エジプト3:14)

つまり、神様は存在する者であるということ。そして、アブラハムを選んで声をかけられたように、選びの神様であることがわかります。

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。(ヨハネ15:16)」

けれども、自分が素晴らしいから神様が選んでくださったと思ったとしたら、それは大きな間違えです。

アブラハムもモーセも神様から選ばれた者ですが、彼らの能力や性格によって選ばれたわけではありません。
むしろ、選ばれるのに値する人間ではないのに選んでくださることがすごいことだと思います。
そして、選んだ人が失敗したり、間違った道を歩んでしまっても神様は決して見捨てないと約束してくださっているのです。

わたしは「こんな弱くて、何のとりえもないわたし、どうしようもないわたしを選んでくださってありがとうございます」と神様に言っています。

ブログを読んでくださっているあなたへ

神様はあなたのことも選んでおられます。神様はあなたのことを愛しておられるからです

日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。ぜひご覧ください。
posted by 土筆文香 at 16:58| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月06日

神様は不公平ですか?

音をたてて雨が降っています。暑い日が続いていたので、嬉しい梅雨入りとなりました。

「信仰を持つとはどういうこと?」と聞かれることがあります。
水曜礼拝で、「神の語りかけを聞いて応答することが信仰を持つということです」と教えていただきました。

神の語りかけとはどういうことでしょう。信じている人には神の声が聞こえるのでしょうか……。そうではありません。
それなら、どのようにして神様は語りかけてくださるのでしょうか。そして、応答するとはどういうことなのでしょう。

人が生まれつき備わっているものや、自分で選んだり変えたりすることができないまわりの環境が、神からの語りかけになっているそうです。
この時代に日本人として生まれたこと、女性であること、両親、容貌、生まれつきの性格など……。

かつてわたしはすべてがいやで文句ばかり言っていました。とくに体が弱いことが不満でした。聖書に書かれている神の存在は知らなくても、大いなるものの存在は感じていましたから、そのお方に不平を言っていました。
他の人と比較して、自分が持ってない健康、容貌、能力が羨ましいと思い、「神様は不公平だ」言っていました。

聖書に示され、わたしを造ってくださった神様がどんなお方かわかったとき、神様はわたしにふさわしい要素を生まれる前から備えてくださったのだと知りました。どんな要素にも目的と意味があるのです。
たとえば、生まれつき体が弱いことは、じっとして体を休める時間が長いことによって、物事をじっくり考える習慣がつく。神様のしてくださったことをゆっくり思いめぐらすことができる。

いろいろな病気で苦しむことによって、病で同じような苦しみの中にある人を慰めることができるなど……。
神様は、マイナスと思われる要素でさえ、よいことのために備えてくださっているのです。

「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。(エペソ2:10)」

置かれた環境や毎日起きる色々な出来事、ほんのささいな日常の出来事の中にも神様からの語りかけがあります。
それを見逃さないようにしてしっかりと聞き、応答していきたいなあと思いました。

「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。私がひそかに造られ、地の深いところで仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。(詩編139:13-16)」
posted by 土筆文香 at 16:09| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月29日

こんなはずじゃなかった

昨日は水曜礼拝でした。
出エジプト記を学んでいますが、聞いたことをそのまま書くと原稿用紙20枚分ぐらいの長さですので、その中で特に心に残ったことだけを書くことにします。

モーセのミデヤンでの40年を歌ったもののようだとして、「生きる」の歌詞が紹介されました。

          生きる

「こんなはずじゃなかった」と思うときは生きるのがつらい
花を咲かそうと焦ってみても つぼみのひとつも開きはしない
生きる喜びも悲しみも すべてのことは神様から
無意味な時などひとつもなく 無駄な人生はどこにもない

「これでよい」と思えるとき 生きる喜びがあふれてくる
固く閉ざされた土の下にも 気づかないうちに根が伸びてる
生きる喜びも悲しみも すべてのことは神様から
無意味な時などひとつもなく 無駄な人生はどこにもない


この「生きる」という歌は、めぐみ教会オリジナルソングで牧師夫人のM・H先生が作詞作曲されたものです。土浦めぐみ教会のHPから曲が聴けますので、ここをクリックしてください。


人生の中でこんなはずじゃなかったと思うことが起こりますね。
「子育てに振り回されて自分の時間がなくて、やりたいこともできない時期が続き、ようやく子どもが大きくなって、自分の時間が持てたと思った矢先に……」「会社のために身を粉にして働き、やっと退職してこれからゆっくり好きなことをしようと思った矢先に……」
事故にあったり、癌になったり、予想もしない出来事に見舞われると、精神的に病んでしまうことが多いそうです。
精神科医の柏木哲夫先生はそれを「矢先(やさき)症候群」と名付けています。

イスラエル人でありながらエジプトの王子として育てられたモーセは、正義感からイスラエル人を虐待していたエジプト人を殺してしまいました。
そのことでエジプト人社会からもイスラエル人の社会からも拒絶されて、仕方なしにミデヤンの地に逃げて行きました。そこで40年も羊飼いとして過ごしました。
最初は、「生きる」の歌詞のように「こんなはずじゃなかった」と思ったことでしょう。

「こんなはずじゃない」という人生を歩んでいるというのは、「自分の人生」をまだ肯定できていない、また自分の現在の姿を受け入れられない状態のことです。
それに対して「これでいいんだ」という人生は、今の自分に対する恵みを十分に感謝できている状態のことです。
と牧師先生が言われました。

モーセはミデヤンの地で暮らす間に「こんなはずじゃなかった」から「これでいい」と思える人生に変えられたのです。
ミデヤンの地で40年過ごしたころ、モーセは不思議な現象を見ました。柴が燃えているのに燃え尽きないのです。その現象はほかの羊飼いたちも見ていたはずですが、見に行くために山に登ったのはモーセだけでした。

「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。(出エジプト記3:3)」と聖書に書かれています。
モーセは、不思議な現象として見たのではなく「大いなる光景」として見たことから神との出会いにつながったのです。

神との出会いは「不思議さ」に鍵があるのではなく、人が不思議な現象の中に「大いなる光景」を見いだせるとき、神との出会いの糸口が生まれるのです。


「こんなはずじゃない」と思っているうちは、神様と出会う可能性があっても、気づかずに過ごし、機会を失ってしまうような気がします。
どうしてもこうありたいという願いを強く持っていて、それが叶えられないかもしれないと思ったとき、「こんなはずじゃない」と怒りに似た感情を抱いてしまいます。そういうときは、見るべきものが見えていません。何かに囚われていて心に余裕がなく、神と出会うチャンスがきているのに失ってしまうのです。

でも、「これでよい」と思えたときは、心に余裕がもてます。自分ばかり見つめるのでなく、周りを見る余裕ができるのです。そんなとき、大いなる光景を見い出し、神との出会いの経験をすることができるのだなあと思いました。
posted by 土筆文香 at 16:34| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。