2014年05月23日

何のために生きているのか

昨日は我が家での家庭集会でした。先生と6名の方が来てくださいました。

「人生を導く五つの目的」(リック・ウォレン著 パーパス・ドリブン・ジャパン)の3日目を学びました。

この本は何度も読んでいたのに、久しぶりに読むと、すっかり忘れていて新鮮に感じました。

あなたの人生を動かしているものは何か?と問われました。

『多くの人は、罪責感に駆り立てられたり、怒りと憤りに駆り立てられたり、恐れに駆り立てられたり、受け入れられたいと言う必要に駆り立てられて生きている。』と書かれています。

確かにそうですね。
わたしは罪責感や恐れに駆り立てられて生きていました。恐れは振り払っても、振り払っても追いかけてきます。

『恐れとは、神が意図しておられる者となることを妨げる、自分で作り出した牢獄のようなものです』

冷静に考えれば恐れる必要はなく、恐れたからといって何のメリットもないことがわかっていても、自分の力では恐れを振り払うことができません。
わたしは、恐ろしくなったとき、いつも思い出す聖書の言葉があります。

「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。(Uテモテ1:7)」

このみ言葉は「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた」(創世記2:7)とリンクしていると教えていただきました。

神様は人を造られたとき、いのちの息を吹き込まれました。いのちの息とは霊のことです。神様から霊を吹き込まれたのに、人は罪を犯して神から背を向けてしまったため、臆病の霊を持つようになりました。でも、神との関係が回復して臆病の霊が取り除かれ、力と愛と慎みの霊が宿ったのです。

『最大の悲劇は死ぬことではありません。何のために生きているのかわからない人生ほど辛いものはないのです』

と書かれています。

生きる目的を持たないと、何のために生きているのかわからなくなります。
『目的を知ることによって、人生の焦点が定まる』のです。

わたしは、洗礼を受けた後、誤解していたことがあって、教会を離れてしまいました。その後結婚して子どもが与えられましたが、空しさを感じていました。
幼子を抱いて、この子が大きくなったとき、わたしの生き方を知ったらどう思うだろうと不安になりました。クリスチャンなのに教会へも行っていない自分。神さまの存在を信じているのかどうかもわからない状態で、何かあると柳の木の枝のように心が揺れていました。これではいけないという思いが募ってふたたび教会へ通うようになったのでした。

教会の婦人会の学びで「あなたの人生の目的は何ですか」という質問をされ、答えられませんでした。目的がわからないので空しかったのです。
「人生を導く五つの目的」には『人生の目的は永遠への準備をするため』と書かれていました。

また、神様の御前に立たされたときされる二つの質問が書かれていました。
ひとつは、『イエス・キリストに対してあなたはどのような態度をとりましたか。』です。
信じる前はイエス・キリストに背を向けていました。信じて間もないころも顔をそむけていました。でも、今はイエス様なしでは生きられません。

もうひとつの質問は、『わたしがあなたに与えたものを、あなたはどう活用しましたか』です。

これは答えに窮します。賜物を生かしきれているかどうかわからないからです。しばらくは賜物が何かわかりませんでした。書いて伝えることだとわかっても、十分活用しているか問われると自信がなくなります。

でも、与えられている肉体のいのちには限りがあるのですから、できるだけのことをしたいと思いました。永遠への準備という目的を持って。

「神は人の心に永遠を与えられた。(伝道者の書9:11)」


posted by 土筆文香 at 17:00| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月17日

助けて!と叫ぶだけで

水曜礼拝で出エジプト記を学びはじめました。

出エジプト記のテーマは「神による救い」です。
「救いとは何か」について教えていただきました。

イスラエルの民はエジプトで奴隷として苦しい生活をしていました。奴隷生活からの解放が救いなのですが、エジプトを出るということは、荒野を旅すること、先住民のいる土地にのぼっていくことでした。救いには苦労があるということを示しています。

救いとは、『悩まなくてよくなる』、『心配事がなくなる』、『病が治る』ことを約束しているわけではないのです。
苦労はあるけれど、その中で神と共に歩むことを救いというのだそうです。

「信仰を持つということは、神と共に生きる中で神に叫ぶ(祈る)ことのできる人生です。本当の不幸は、神と共にいる実感がないことです。」
と聞いて、その通りだと思いました。

わたしは乳がんになって、もうすぐ死んでしまうかもしれないと思ったとき、不安に押しつぶされそうになりました。でも、神様が共にいてくださるという実感があったので、ぎりぎりのところで支えられ、暗闇の穴から引き揚げられました。
人一倍心配性で、マイナス思考で、悪い方悪い方へと考えてしまうわたしです。もし、信仰をもっていなければ、暗闇をさまよい続けていたでしょう。

祈れないときは神様に向かってわめいたらいいのです。「助けて!」とひとこと叫ぶだけでいいのです。
叫ばなくても神様はすべてご存じで救いを備えてくださっているのですが、叫び声を聞いてくださる神様がおられることを心から嬉しいと思います。

エジプトで苦しんでいたイスラエルの民の叫びを神様は聞いてくださいました。

「イスラエル人は労役にうめき、わめいた。彼らの労役の叫びは神に届いた(出エジプト記2:23)」
このようにわたしたちの叫びも神様に届いています。
posted by 土筆文香 at 17:06| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月12日

大いなるしかし

昨日は洗礼礼拝でした。3人の方が洗礼を受けました。
メッセージはイエス様が十字架につけられ、息を引きとられる前に言われた言葉の意味について語られました。

イエス様は「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。の意)(マタイ27:46)」と叫ばれました。

この言葉は難題聖書箇所と言われているところで、色々な解釈がなされています。

「イエス様が何のために世に来てくださったかを考えると、本当の意味がわかってきます。」と牧師先生が言われました。

イエス様は罪人であるわたしたちのために身代わりとなって罰を受けるために来てくださいました。
わたしたち人間は、良いことをしたくてもできず、悪いことをすると隠します。生まれながらの罪人です。

この罪によって、神様から永遠の刑罰を受けることになっていました。
へブル9:27には「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように」と書かれています。

人は皆、神の裁きの座に立たされます。そして、すべての人が有罪になります。
有罪判決を受けたら「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ぶしかなくなります。

ところが、イエス様はわたしたちが受ける裁きをわたしたちに代わって受けてくださいました。「わが神……」と叫ばなくてはならないほどの苦しみを味わってくださいました。
おかげで私たちは、「わが神……」と絶叫する必要がないのです。

「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって(略)生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かしーーあなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。ーー(エペソ2:3-5)」

このしかし大いなるしかしというのだそうです。

「信じた私たちは安息にはいるのです。(へブル4:3)」これを救いといいます。

イエス様のしてくださったことを信じるだけで救われます。

ただ恵みにより救いにあずかったのですから感謝ですね。
イエス様のしてくださったことの大きさを改めて知らされて心があつくなりました。
posted by 土筆文香 at 21:55| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月28日

ピースチャイルド

昨日は聖餐礼拝でした。
神との和解についてのメッセージが語られました。

『神との和解』と聞くと、神に敵対しているわけでもないのになぜ和解が必要なの?と思われる方がいるでしょう。
『キリストを信じるということは、キリストを信頼することです。キリストを敬わないことは、侮辱していることです。創造者を礼拝しないことは不敬にあたります。神から期待されているのに従わないのは不従順です』と聞いてドキッとしました。

信頼するとは、他のものを頼りにしないということです。少しも疑いの心を持たないということです。わたしは心からキリストを信頼しているのでしょうか。礼拝を捧げていても真心を持って捧げているでしょうか。かたちだけになっていないでしょうか。神様に対していつも従順だったでしょうか……そんな自問をすると、足元がくずれていくようです。

『神を神として愛していないことは的外れなことで、それは罪です』と牧師先生が言われるのを聞いて、自分は罪人なのだと改めて思いました。

聖書には「すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず……(ローマ3:23)」と書かれています。
それでは、どうしたらいいのでしょう。

神様と和解する必要があります。でも、そのためにわたしたちがしなければならないことは何もありません。
イエスキリストによって、すでに和解が成立しているからです。

1960年代、宣教師のドン・リチャードソンが奥さんと共にパプアニューギニアの地へ行ったときのことが紹介されました。

伝道は難しく、リチャードソンが十字架のことを話すと、現地の人たちは笑ったそうです。身代わりの死は愚かだという価値観があったからです。

部族同士の争いがあって、それが何年も続きました。ようやく部族間での和解が成立するとき、サウィ族にタロップ・ティムという習慣があることに気づき、ドン・リチャードソンは驚きました。

タロップ・ティムとは『和解の子』という意味で、和解のしるしとして、生まれたばかりの子どもを互いの酋長に渡して交換する儀式です。その子どもが生きている間は争いをしないのだそうです。

このことを糸口として、ドンは神が永遠の和解のいけにえとして送ってくださったイエス・キリストを伝えていきました。すると、ようやく人々の目が開かれていったのです。

「ピース・チャイルド」という題名の映画になっているそうです。

赤ちゃんを差し出すとは、その母親は引き裂かれるような思いだったでしょう。お互いに赤子を差し出し、敵だった部族の赤ちゃんを大切に育てることによって平和が保たれるのですから、まさにピース・チャイルドですね。

神さまは、和解のためにひとり子イエスのいのちを差し出してくださいました。こちらからは何も差し出さないのに……。

「これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。(Uコリント5:18)」
posted by 土筆文香 at 20:31| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月16日

ほかの重荷を負わせない

この数日、捜し物ばかりしています。ひとつが見つかると、別のひとつがなくなるといった具合です。今やったことを忘れて同じことを繰り返してしたり、何度も同じことを言ったり。
ものすごい勢いで頭が老化していくようで、恐ろしいです。忘備録を作っていますが、それを見ていても記憶から消えてしまうのはなぜでしょう……。


今日水曜礼拝で聞いたこともすっかり忘れてしまいそうなので、ポイントだけ書き留めておくことにします。
新約聖書の黙示録は、一世紀の末にキリスト教迫害の中にあってヨハネがパトモス島で書いた手紙です。
約2000年前に書かれたものですが、当時の教会の人たちに対してだけでなく、終末に直面する教会に対して書かれ、同時に今を生きるわたしたちに向けられてもいるそうです。

ヨハネはアジヤにある7つの教会に手紙を書きました。
その中でテアテラの教会へあてた手紙について学びました。
「また、テアテラにある教会の御使いに書き送れ。燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子が言われる(黙示録2:18)」

『燃える炎のような目』『光り輝くしんちゅうのような足』は、イエス様のことを示しています。そのまま想像するとちょっと怖いですが、外見を表しているわけではないのです。

目は、イエス様がテアテラ教会の長所と短所を見ていることを意味しています。
足とは何かを行っていく力です。イエス様が行動されたように教会は悔い改めたり、主の業を守ることを期待されているのです。

テアテラ教会には4種類の人がいました。@イゼベルと呼ばれる女預言者。Aイゼベルの子どもたち。Bイゼベルと姦淫を行う者たち。Cイゼベルの教えを受け入れない人たちです。

イゼベルは旧約聖書に出てきます。北イスラエルの悪王アハブの王妃で、バアル礼拝をイスラエルに持ち込み、民を惑わせた人です。
女預言者にその名がついているということは、テアテラ教会で人々を惑わせていることを示しています。イゼベルはキリスト教信仰を持ちながらも同時にこの世の価値観や世俗主義を容易に受け入れました。

主は悔い改める機会を与えたのですが、イゼベルは悔い改めようとしませんでした。

Aのイゼベルの子どもたちとは、子どもではなく、イゼベルの教えの信奉者たちのことです。この人たちもイゼベル同様悔い改めようとしませんでした。

Bのイゼベルと姦淫を行う人たちとは、偽りの教えに惑わされ、世と妥協し、罪に陥った人たちのことです。
主はこの人たちにも悔い改めを迫ります。

Cのイゼベルの教えを受け入れない人たちというのは、女預言者イゼベルの誘惑に屈せず、彼女の教えを受け入れようとしなかった人たちのことです。
世俗の価値観が根強く残る商業都市テアテラにおいて、純粋な神への信仰を貫き通した人々がいたのです。

「しかし、テアテラにいる人たちの中で、この教えを受け入れておらず、彼らの言うサタンの深いところをまだ知っていないあなたがたに言う。わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。(黙示録2:24)」

「ほかの重荷を負わせない」と書かれているところに心打たれました。

「わたしはあなたの行いとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており、また、あなたの近ごろの行いが初めの行いにまさっていることも知っている。(黙示録2:19)」
テアテラに対する主からの賞賛です。

テアテラ教会はイゼベルやその信奉者たちが大きな罪を犯していましたが、その中に純粋な神への信仰を貫き通した人々がいたのです。その人たちがいたからこそ賞賛され、主からの励ましと約束の言葉が届けられたのですね。


また、励ましの言葉として「ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい(黙示録2:25)」と書かれています。

持っているものとは
『主をあかしし、福音を伝え、教会と隣人に仕え、愛と信頼を抱き、苦しみや理不尽に耐え、神の深みに達することを求めて生きること。』です。

わたしたちもそれを持っているのだと知らされて嬉しくなりました。理不尽や苦しみに耐えるのはつらく、何もかも投げ出したくなってしまうことがありますが、イエス様がしっかりと持っていなさいと言われるのですから、そうしたいと心から願いました。
posted by 土筆文香 at 20:26| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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