2014年04月12日

すばらしい宝物

今日は子ども家庭集会でした。月に一度、土曜日の午後に教会学校に来ているMちゃんの家に友達が集まってきます。I先生とわたし、ときには落語をしてくださる長老、教会学校の若い先生も訪れます。ゲームをしたり、聖書のお話を聞き、賛美をして楽しい時間を過ごしています。ゲームというのはテレビゲームではありません。ピンポン玉やペットボトル、トランプ、ハンカチなどを使ってする集団ゲームです。毎回考えて準備していきます。

子ども家庭集会はふだん教会学校に来ていない子どももやってきます。

今日はわたしがお話をしました。「すばらしい真珠を見つけた人(高見澤潤子著)教文館」という絵本を読みました。その絵本はイエス様のたとえ話をもとに書かれています。商人がすばらしい真珠を捜して旅をし、みつかったとき、全財産を売り払って真珠を手に入れたという内容です。

絵本を読んだあとで以下のようなお話をしました。

あなたは宝物を持っていますか? どんな宝物ですか?
このお話は、イエス様のたとえばなしです。イエス様は神様のこと、神様の国のことを人々に話すとき、わかりやすいようにたとえ話をされました。
財産すべてを投げ打ってでも手に入れたかった真珠とは何のことでしょう……。

わたしたちの心には罪があります。罪とは嘘をついたり、友達に意地悪してしまったり、あんな人いなくなればいいのにと心の中で思ったりすることです。罪をなくしたいと思っても、自分の力ではなくすことはできません。このままでは罪のために滅びてしまいます。

でも、神様はご自分のひとり子を地上に生まれさせてくださいました。それがイエス様です。イエス様を信じれば罪が赦されるのです。

どうして信じるだけで罪赦されるかというと、イエス様が十字架にかかってくださったからです。わたしたちの罪に対する罰をわたしたちに代わって受けてくださったのです。

イエス様は十字架で死にました。でも、三日目に墓の中からよみがえりました。
十字架のおかげで、わたしたちはイエス様を信じるだけで神のみ国でずっと神様と一緒に過ごすことができるようになりました。

それが宝です。イエス様はこんなすばらしい宝をくださいました。
この宝をいだたいているわたしたちは、どんなにすばらしい真珠や金銀宝石などよりも価値のあるものを持っているのです。


お話の後、「ぼくの宝物」を賛美しました
歌詞を紹介します
     
ぼくの宝物

イエス様がくれた このくちびるで
イエス様を賛美しよう
今日も注がれる 限りない愛
心から感謝ささげよう
ぼくの宝物はイエス様を知ったこと
イエス様と一緒に生きること
わたしの宝物はイエス様を知ったこと
イエス様と一緒に生きること


イエス様と出会ったことがわたしの宝物です。ほかのものは何もいりません。イエス様という宝が与えられているすばらしさに感動し続けています。この思いが子どもたちに伝わったでしょうか。

聖書の言葉
「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。 (ピリピ3:8)」 

posted by 土筆文香 at 20:54| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月09日

永遠のいのち

昨年の10月から水曜礼拝では「使徒信条」の学びをしています。20回にわたって学んできましたが、今日最終回を迎えました。「使徒信条」とは、キリスト信仰の内容を示したもので、信仰告白文です。

使徒信条を紹介します
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、
イエス・キリストを信ず。
主は聖霊(せいれい)によりてやどり、
処女(おとめ)マリヤより生れ、
ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、
十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、
三日目に死人のうちよりよみがえり、
天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり、
かしこより来たりて、
生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまわん。
我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、
聖徒の交わり、罪の赦し(ゆるし)、身体(からだ)のよみがえり、
永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。 
 アーメン。


使徒信条は、礼拝の中で唱えますが、一文一文に深い意味のあると教えられました。

最後に「永遠(とこしえ)のいのちを信ず」と書かれています。

若いころ、永遠のいのちとは何だろう……と思っていました。
ちょうど銀河鉄道999の映画が上映されていたころでした。
映画を観て、永遠のいのちとは死なない身体になることで、それを得ても必ずしも幸せとは限らないと思いました。限られた時間を生きているからこそ、幸せと感じることもあるのだと考えていました。


でも、聖書に示されている永遠のいのちとは、そのような意味ではないのです。永遠とは時間の無限の延長ではなかったのです。

「「永遠のいのち」とは、「もの」ではなくて、「神と共にいる状態」のことです。」と牧師先生が言われました。
聖書には次のように書かれています


「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)」

永遠のいのちを持つことは、神の国に入る、神の国を見るということになるそうです。

永遠のいのちは「もの」ではなく、神ご自身の中に包んで、いつまでもその状態でいてくださることです。


神様自身の中に包まれ、その状態がずっと続くのなら、このうえなく幸せでしょう。

そんな幸せな気分を地上でも味わう瞬間があります。
美味しい物を少しだけ試食するような感じです。
そんなときは、すでに永遠のいのちをいただいていると言えるのですね。


「イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。(ヨハネ4:13-14)」

posted by 土筆文香 at 21:13| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月23日

疲れた人、重荷を負っている人

今日は息子夫婦の第2子の予定日です。まだ連絡はありません。予定日より早く生まれるのだろうと思って、今日か明日かと待っていると、期待と不安でいっぱいになってドキドキしてきます。(わたしが産むわけではないのですが……)

立ち合い出産で、パパとヒックンに見てもらうと言っていましたが、タイミングよく見ることができるのでしょうか……。
産まれたら我が家でヒックンを預かることになっているので、主人は先週から仕事を休んで待機しています。
わたしにできることは出産の無事を祈るだけです。生まれる日は神様が定めてくださいます。


今日の礼拝メッセージは、2年間韓国で宣教師として働いて帰国されたA先生がお話ししてくださいました。聖書箇所はマタイ11:28〜30でした。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます(マタイ11:28)」

わたしというのはイエス様です。イエス様のところへ行けば疲れが癒され、重荷をおろすことができるといっているのです。


わたしは努力することが一番大切だと教えられて育ちました。かつては努力して何かを勝ち取っていくことが奨励される社会でした。今もその傾向はありますね。
わたしが子どものころはそれが顕著で、漫画でも根性ものが流行っていました。

わたしは体が弱かったので、頑張りがききませんでした。高校生の時、いつもは10時に寝ているのに試験前に12時近くまで起きて勉強したら、試験の当日熱を出して欠席する羽目になり、その日の試験は0点にされてしまいました。(診断書を出してもだめでした)

まとめて勉強するのが無理なら、日ごろから努力すればいいんだと思って、単語カードにびっしりと覚えることを書きこみ、常に持ち歩いてトイレの中ででも覚えていました。そのかいあって高校ではいい成績をとることができました。
 
幼稚園教諭を目指して、保育科の短大でも一生懸命努力していい成績をとったのですが、幼稚園に勤めたら、学校の勉強がほとんど役に立たないことを知り、愕然としました。自分の無力さをいやというほど知らされました。

勤めて2年ほどたったとき、重荷で押しつぶされそうになっていました。疲れ果て、よろよろと教会の門をくぐったのでした。
聖書の言葉通り、イエス様は休ませてくださいました。それまで何でも自分の力で解決しなくてはと緊張していましたが、イエス様に頼ることにっよって緊張を緩めることができました。すると、心からほっとできました。


「休ませる」という言葉は、竪琴の弦をゆるめるところからきているそうです。「はりつめ、切れそうになっていた弦をゆるめると、重荷をおろすことができ、緊張がほどけるのです。
そして魂の深いところに休息が与えられます」
とA先生が言われました。

イエス様はわたしたちを休ませてくださるだけではありません。
「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです(マタイ11:29-30)」

休息を与えた後、イエス様はわたしたちを成長へと導いてくださいます。
くびきとは、牛や馬を制するのに使われた物です。体に合ったくびきをつけられると、重荷が軽くなります。

イエス様は張りつめた弦のようになった魂を休ませ、美しい音を奏でられるようにしてくださいます。くびきを負ってイエス様から学ぶことによって、わたしたちは成長させていただける
ことを教えていただき、心から感謝しました。
posted by 土筆文香 at 17:31| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月03日

ずっとこのままがいい

先日6歳のヒックンが来たとき、「ぼく、100歳まで生きる。でも、ずっとずっとこのままがいい」と、おなかの大きいママにしがみついて言いました。

人間は年をとっていつかは死ぬこと、ずっと今のままでいたいけど、変化していくこと。6歳の子どもが、その空しさをすでに感じとっているのです。
そういえば長男も一年生のころ「ずっとこのままでいたい」と言っていました。長男は「家族4人でずっと暮らしていたいから、結婚しないんだ」と言ったのです。それでいて早々と結婚して家を出たのですが……。

「ずっとこのままがいい」と言えるのは、今が幸せだからだと思います。今、耐えられないような苦しみの中にいるなら、変化を求めるでしょう。

地上の歩みは長いようで短く、どんなに恵まれた人生を送っても、老、病、死からまのがれません。毎日目に見えないほどわずかかもしれませんが、人は変化していきます。

人だけでなく、動植物も地球も年をとり、建造物も朽ちていきます。この天地は滅びるのです。

聖書の伝道者の書3:11には、「神はまた、人の心に永遠を与えられた。」と書かれています。永遠への思いを与えられたのです。

それだけでなく、神様はわたしたちに永遠のいのちを与えてくださいました。それは、地上で永遠に生られるという意味ではありません。

人間の死には、肉体の死と魂の死があるのです。神様は、わたしたち人間をとても愛してくださっていますから、魂が永遠に生きられるようにしてくださいました。苦しみも悲しみも死もない天国で永遠に生きられるとは、なんと幸いなことでしょうか。


「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものがもはや過ぎ去ったからである。(ヨハネの黙示録21:4)」


天国とはこのようなところです。
posted by 土筆文香 at 17:16| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月27日

苦しみのどん底まで味わったとき

「見てよ、ママのおなか。こんなに大きくなっちゃって」
ヒックンが言いました。予定日は3月23日です。ヒックンの誕生日が3月31日なので、同じころになるかもしれません。2人目だから、もっとずっと早いかもしれません。

生まれたら、ママと赤ちゃんは、ママの実家(ヒックンの家の近く)にお世話になるので、ヒックンは我が家で預かることになっています。春休みも含めて1か月近くいることになるかもしれません。

備えて今から貯金をしています。貯金と言ってもお金ではありません。聖書を読む貯金です。一年間で聖書全部読めるように聖書通読をしていますが、1日20分ぐらい読まなければ通読ができません。ヒックンが来たら、朝のデボーションで10分ほど読むくらいしかできなくなるので、いまのうち多目に読んでおくのです。今日で8日分の貯金ができました。

料理も出かけた時のために作って冷凍しておきます。ブログ日記の貯金はできませんが、JCPのホームページを早めに作っておかなくては……。


先週、我が家での家庭集会に韓国の宣教師、Y先生が来てくださいました。初めてかと思ったら、そうではありませんでした。12年前、Y先生がめぐみ教会に来られて間もないころ文京家庭集会に来てくださっていたのです。
そのときは、片言の日本語でしたが、今は流暢に話されています。

聖書箇所はTサムエル1:1〜18。リビングライフからの学びでした。
エルカナにはハンナとペニンナという二人の妻がいて、ペニンナには子どもがいましたがハンナには子どもがいませんでした。
エルカナはハンナを愛していたため特別扱いしたので、ペニンナは嫉妬してハンナをいじめました。ハンナは、不妊という問題とペニンナからのいじめによって2重に苦しみ、泣いて食事もとれませんでした。

なぜハンナはこれほど苦しまなければならなかったのでしょう。
聖書には「主がハンナの胎を閉じておられた。」と書かれています。神様から来る苦しみだったのです。それには意味がありました。

ハンナは主の宮へ行って心にある思いを打ち明け、子どもが与えられるように祈りました。
もし男の子が与えられたら、その子をささげると誓願を立てました。

『すべての問題解決の鍵が神にあるという信仰を持って、祈りの場に出て行かなくてはなりません。』とテキストに書かれています。

神様はハンナの祈りを聞き入れて、男の子(サムエル)を与えてくださいます。ハンナは誓願の通り、サムエルが乳離れしたときに神殿へ連れて行ってささげたのです。

ハンナに最初から子どもが与えられていたら、これほど苦しむことはなく、このような祈りはしなかったことでしょう。そして、長男をささげることもなかったでしょう。
長男サムエルは、のちに預言者としてイスラエルになくてはならない存在となります。ハンナの苦しみは、神様のご計画だったのですね。


『苦しみのどん底まで味わったときに、神が働かれる空間が生まれたのです。神にすべてをし注ぎ出し、主だけを見上げる人は、涙の谷を通って、ついには神が与えてくださる平安と栄光に至ります。』

『祈りは消えてなくなる山びこではありません。確実に神から応えが返ってきます。』
                             リビングライフより
posted by 土筆文香 at 16:32| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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