2014年02月24日

行きなさい

20日は我が家での家庭集会。21日から実家へ行って泊まり、22日はお茶の水で行われた日本クリスチャン・ペンクラブ童話エッセイの会に出席して土浦にもどってきました。

23日は朝早くから教会で、午後からはヒックンが来て……休む間もありませんでした。
 

昨日は教会学校で暗唱聖句大会が行われました。子どもたちにあらかじめ聖書の言葉が書かれたカードを配り、覚えてくるように促し、当日はゲーム形式でグループごとに競います。例年は40分ほどの時間内で行っていたため、じっくりというわけにはいきませんでしたが、今年は10時半から12時半まで、たっぷり時間を使って行いました。

教師たちはそのために朝8時半からの第T礼拝に出ました。聖句並べ替えゲームやみことばソングゲーム、百人一首ふうカルタなど……。覚えていない子でも楽しめるように工夫が凝らされていました。

「暗唱聖句大会なんかつまらない。ぼくは覚えないよ。」と言っていた子どもが17もの聖句を覚えてきて、カルタで大活躍したのには驚きました。

20個の聖句を3回ずつ間違えずに暗唱できたら完全制覇賞です。ほかに 個人賞としてヨハネ1:1〜14を覚えるというのがあります。

最初は23日締め切りにしていたのですが、暗唱聖句大会で意欲が出て来た子どもたちが多かったので、締め切りを延期しました。
わたしも、まだ完全に覚えていないので今週中に全部覚えるようにがんばります。

礼拝では使徒の働き22:1〜21のところからメッセージが語られました。パウロは殺意のある群衆に取り囲まれ、千人隊長に捕えられましたがそのとき、弁明の機会が与えられました。
パウロは殺されるかもしれないという状況の中で、自分のうえに起こったことを述べました。かつてはクリスチャンを迫害する者だったけれど、ダマスコへ行く途中、自分が迫害しているイエスと出会って、180度変えられたことを語ったのです。
Tペテロ3:15には「そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。」と書かれています。

キリスト教の教えや道徳的倫理に感動する人はいますが、信じる人は少ないと聞きました。でも、信じた人が、生ける神さまとの人格的な出会いを語れば、それを聞いた人が真剣に神様を求めるようになるかもしれません。

使徒の働き22:21には「行きなさい」と書かれています。イエス様がパウロに言われた言葉です。異邦人のところへ行って、伝えなさいと言っているのです。イエス様はパウロに期待し、パウロは使命として受け止めたのですね。

イエス様はパウロにだけでなく、わたしにも「行きなさい」と言っておられるのだと思いました。
友人や主人や母に対して、お天気のこと、健康のこと、オリンピックのことなど……とりとめもなく話すのに、キリストに出会ってどれだけ喜びが与えられたかを語らないでいることを反省しました。



posted by 土筆文香 at 20:18| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月19日

見えないものを見るとは?

先日の日曜日は、滋賀県東近江市から福井達雨先生が土浦めぐみ教会に来てくださいました。福井先生は、日本の障がい福祉においてパイオニア的な働きをされてこられた先生で、障がいをもっている人たちの施設、止揚(しよう)学園の創設者です。

わたしが福井達雨先生の名前を知ったのは19歳のとき、神戸の保育科の短大にいたころでした。
「僕アホやない人間だ」という本を読んで感銘したことを覚えています。それから38年もたって、土浦で福井先生にお目にかかれるとは……不思議な導きを感じます。
福井先生は現在82歳ですが、80代とは思えないほどパワフルで、礼拝では熱く語ってくださいました。
語られたメッセージの中から、心に残ったことを書かせていただきます。

止揚学園の止揚とは、ふたつのものがぶつかりあって新しいものが生まれるということです。わたしたちと、重い知的障がいの子どもがぶつかって、子どもたちと共に新しい生き方を生み出していくということで止揚学園と名付けました。
重い知的障がいのある人と共にいると信仰が深められます。それは、重い知的障がいを持った人のうしろにイエス様がおられるからです。彼らはイエス様といちばん近いところに立っているのです。

戦時中、クリスチャンであるぼくの母親は、「天皇は神ではない」と言い続け、留置所に入れられました。ぼくは非国民と言われ、友達ができませんでした。でも、のびのびと明るく育ちました。

母親が38歳のとき、子宮がんで召されました。召される前に語ってくれた2つの言葉は、「見えないものを見、聞こえないものを聞きなさい」「偉い人より立派な人間として生きなさい」でした。
重い知的障がいのある人と共に生きるうちに母親の言った言葉の意味がわかってきました。

聖書には「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。(ピリピ2:6)」と書かれています。

イエスさまは、わたしたちの上に立って「救ってやる」と言っているのではなく、上から下に降りてきて、わたしたちと共に苦しんでくださるお方です。
わたしたちは下から上に行こうとします。でも弱い人は上に行けません。歩けない人、寝たきりの人は下にしかいられません。でも、イエス様は上から下に降りてきてくださいました。十字架の上で命を投げ出してくださいました。こんな深い愛はありません。
イエス様は弱い人、障がいを持った人と共に生きてくださいます。
イエス様は、わたしたちが罪人だから、「神と和解させる」と言ってくださいました。こんなに豊かで優しい宗教はありますか?

重い知的障害のある子どもで「ワーワー」大声を出す子がいます。イライラして「うるさい」と言ったら、ほかの知的障がいの子が、「イエス様とお話ししているんやで」と言ったそうです。
信仰のある耳で聞くと騒音にしか聞こえなかった声が、すてきな会話に聞こえてくるのです。
見えないものを見、聞こえないものを聞くとは、信仰を通して見、聞くということです。


メッセージを聞いて、イエス様が下まで降りてきてくださったことがどれだけ嬉しいことかと思いました。体が弱くて伏せっていることが多いわたしですが、弱さを感じているときほど、イエス様の近くにいるような気がします。

福井先生のお母様は素晴らしかったのですね。たとい38歳の若さで召されても、生きていくのにいちばん大切なことを子どもに教えたのですから。

posted by 土筆文香 at 21:12| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月09日

助けはそこに

45年ぶりの大雪ということで、土浦でもたくさん雪が積もりました。
今日は礼拝の日です。
車ならスタッドレスタイヤ でないタイヤで走るのは、危険です。自転車はこげませんし、こげたとしても転倒の恐れがあります。でも、わたしの2本の足ならだいじょうぶと思って出かけました。
滑り止めのある長靴を履いていきました。雪道はシャーベット状になっていて、歩きにくかったのですが、景色を見ているうちにわくわくしてきました。

教会へ着くと教会学校の小学科教師がわたしを入れて4人(全員で20名います)しかいませんでした。メッセージを語る予定の先生はふたりとも交通手段がなくて行けないと連絡がありました。

子どもたちも1年生から6年生まで合わせてたったの9人でした。(いつもは70名近くいるのですが……)
どうしても教会へ行きたいからと30分もかけて雪道をひとりで歩いてきた子どもがいたので、心打たれました。

10時からの礼拝は予定通りしたほうがよいとのことで、4人で祈りつつ考えました。
23日に行われる暗唱聖句大会に備えて5曲のみことばソングを中心に礼拝を進めることにしました。
わたしが聖句の意味を説明したり、みことばにまつわることを話し、S先生のリード、M先生のピアノで賛美しました。そのあとで聖書を開き、5つの聖句を順に読みました。

聖句の説明をするとき、何の準備もしていませんでしたが、語るべき言葉がそのときに与えられて感謝しました。
5つの聖句の中のひとつ「神はわれらの避け所、また力。苦しむときそこにある助け。(詩編46:1)」を子どもたちと一緒に読んでいたとき気づいたことがありました。

苦しくて助けを求めたときに助けていただくのではなく、助けがすでにそこに備えられているということに気づいたのです。
あまりにも苦しくて「助けて」とも言えないようなときでも、すでに助けがあると神様はおっしゃってくださいます。助けはそこにあるのです。

すべてをご存じで、すべての必要を満たしてくださる神様に感謝しました。
posted by 土筆文香 at 21:07| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月10日

いいことと悪いことの記憶

高校2年の時のクラスメートから連絡が来ました。クラス会をするというのです。いままで同窓会は毎年行われていたけれど、クラス会の連絡は何十年もありませんでした。40名いたクラスの中で35名と連絡がついていると聞いて驚きました。
なかには阪神大震災で亡くなっている人もいます。
兵庫県なので参加は難しいなあと思いました。第一連絡をくれた人のことをぼんやりとしか覚えていません。それだけでなく、クラスメートに誰がいたのか……担任の先生は誰だったのか……高2の時の記憶がとんでいます。

年度途中で転入した中学1年のクラス。友達がひとりもできなかった中2のクラスの方がしっかり記憶しています。

昨日メールで2年I組の名簿をみたとき、次々と思い出しました。
わたしは、修学旅行の少し前に盲腸で入院し、そのため修学旅行に行かれなくなってしまいました。
クラスのみんなは、行けなかったわたしを気遣ってお金を出し合ってお土産を買ってきてくれました。嬉しくて感激したのに引っ込み思案だったわたしは、小さな声で「ありがとう」としか言えませんでした。

Mちゃんは、人気者で誰からも好かれていましたが、高1の時のクラスで同じだった女子は一人だけだからといって、ずっと一緒にいてくれました。盲腸のときは、何度もお見舞いに来てくれました。

わたしが喘息で欠席し、久しぶりに登校した日、教室がとても寒かったので、Yちゃんは自分の上着を脱いで、はおるように言ってくれました。

高2の時は楽しかったのだなあ。悪口を言う人もなく、クラスメートはみんな優しかったなあ……と感謝にあふれました。40年以上前のことです。

辛いとき、緊張したり異常な体験をしたとき、苦しいときはしっかりと覚えているのに、人から優しくされたことや感謝なことは、忘れやすいのかもしれません。
いいことがたくさんあったのに、苦しいことが少しだけあると、苦しいことばかり起きるような気がして不満を言ってしまいます。

「私達は幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」と言ったヨブを見習わなくてはと思いました。


この前の日曜日、教会学校でヨブ記のメッセージをしました。これまで教会学校でヨブ記を扱ったことはほとんどありません。ヨブの名を知っている子どもは数人でした。

たくさんの家畜、召使、財産を持っていたヨブは、正しい人でいつも神様を崇めていました。ところが、次々と災害が起こり、召使いや家畜を失い、10人の子ども達まで失ってしまいました。さらにヨブ自身は重い皮膚病にかかり、苦しんでいました。
そのようなときヨブは「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」
と言いました。
奥さんはこんなひどい目に合わせる神様なんか信じるのをやめなさいと言いました。(聖書には「神を呪って死になさい」と書かれています。)

「私達は幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」
と、ヨブは言うのです。

ヨブのお話をした後、わたし自身の病気のことを話しました。これまで教会学校の子どもたちに癌のことを話したことはありませんでした。

わたしは、子どものころ喘息でずいぶん苦しみました。大人になってからも喘息が出て大変辛い思いをしました。こんなに辛いことがあったのだから、癌にはならないだろうと思っていたのに、乳がんになりました。
癌と診断され、それが大変な病気だとわかったとき、「神さま、どうしてですか?」と尋ねて泣きました。
そのとき、ヨブが「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と言ったのを思い出して神様はわたしに悪いことだけを与えているのではないと気づきました。いいこともたくさん与えてくださっているのです。そして、病気は辛いけれど、悪いこととは限らないと思いました。

癌になって、いいことがありました。それは、同じ癌で苦しんでいる人の気持ちがわかるようになったことです。
わたしが癌になる前は、再発転移が怖いと言っている人に「だいじょうぶよ」と気軽に言い、どうしてあんなに心配するのだろうと思っていました。
でも、自分が癌になってから、簡単にだいじょうぶと言えなくなったこと、癌になった人と一緒に泣くことができるようになったと
話しました。

子どもたちがどう受け止めたかわかりませんが、これからの人生で『なぜこんなことが起こるの?』と思うようなことがあったとき、ヨブのことを思い出してほしいなあと思いました。
posted by 土筆文香 at 16:55| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月07日

先に大事にすること

お正月気分が抜けず、まだ頭がぼおっとしています。
今日は七草セットを買ってきました。今晩は七草粥を作ります。

七草粥には、その年1年が健康で、平和に暮らせるようにとの意味が込められているそうです。
また、正月におせち料理などを食べ、疲れた胃腸を休めるとともに、野菜が不足がちな冬に、ビタミンやミネラルを、効果的に摂れる効果があるそうです。
昔の人はビタミン、ミネラルのことを知らなかったのにすごい知恵を持っていたのですね。


5日の日曜日は、元旦礼拝のメッセージの続きを聞きました。メッセージを聞いて感じたこと考えたことを書きます。


「互いに愛し合いなさい」と聖書に書いてありますが、考えてみると相手に欲求することが多いです。
愛し合いたいのに相手が愛してくれないからわたしも愛さない。相手がやさしくしてくれたらわたしもやさしくするのに……。相手が赦さないから、わたしも赦さない。
と言って反目しあう人たちがいます。

子どもたちが小さかったころ、毎日毎日兄妹喧嘩をしていました。「どうして喧嘩ばかりするの!」と長男に問いただすと「ぼくは仲良くしたいと思っているのに、Mちゃんがにらみつけるんだ」と言い、長女にも同じ質問をすると「わたしは仲良くしたいと思っているのにお兄ちゃんが意地悪するんだもん」と答え、喧嘩はやみませんでした。

お互い相手に求めているのですね。自分からやさしくしたら損だと思っているようです。

「愛することをまず自分からはじめなければならない」と牧師先生が言われました。
それには理由があります。それは、まず神がわたしを愛してくださったという事実があるからです。

もし、わたしが相手を思いやろうと決意しているなら、先に相手を思いやりましょう。
もし、わたしが相手を大事にしようと決意しているなら、先に大事にしましょう。
もし、わたしが嫌いな人がいても、わたしの方から大事にしましょう。
もし、わたしに被害を被らせた人がいても、わたしの方から大事にしましょう。
もし、わたしに敵意を持つ人がいても、わたしの方から大事にしましょう。


このことは簡単なようで意外と難しいですが、ひとりひとりが実行できれば、世界は平和になるでしょう。
愛することは、相手を大事にすること、大切にすること。

もし、相手を大事にしようと決意しているなら、神はわたしの心に住んでくださるのです。

「もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。(Tヨハネ4:12)」
posted by 土筆文香 at 17:05| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。