2014年07月05日

いちばん大切なものは?

今日は子ども家庭集会でMちゃんの家へいってきました。

子ども家庭集会では、身近なものを使ってゲームをしたり、聖書のお話しをし、賛美をします。今日は7人の小学生が集まりました。
お話はわたしが担当させていただきました。

聖書のたとえ話の絵本「おろかな金持ち」を読んでからメッセージをしました。
たくさんの財産、穀物を持っている金持ちが、蔵を建て、これで安心だと思った日に死んでしまったというストーリーです。

絵本を読んだ後、次のような話をしました。

「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。ルカ12:15」と言ってからイエス様はこのたとえ話をされました。

貪欲とはなんでしょう。この「おろかな金持ち」のようにものすごく欲ばりという意味です。

この人のどこが間違っていると思いますか?
この愚かな金持ちが得た〈穀物や財産〉は、もともとは神さまのもので、何かの目的のために彼に管理するように任せられていることを忘れていました。

また、自分の安全を保証してくれるのは、神様以外にはないことを忘れ、〈穀物や財産〉が守ってくれるのだと思い〈さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ〉と言いました。

それでは、イエス様は私たちがお金持ちになってはいけないといっているのでしょうか。いいえ、違います。お金が神様より大切になったり、お金を集めることだけが生きる目的になってはいけないと言っておられるのです。
あなたは「神様よりも大切にしているもの」がありますか?

お金でなくても、どんなものでも神様より大切にしているものがあるのなら、この愚かな金持ちと同じ生き方をしているといえます。
このたとえ話をした後に、イエス様は「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです」(ルカ12:21)と言われました。
〈神の前に富まない〉とは、神に繋がっていないということです。

それでは、神様はわたしたちにどのような生き方を望んでおられるのでしょう。
神様に繋がって神様を第一にして生きることを望んでおられます。

「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。(詩篇1:2-3)」  

このみことばの賛美をしました。


わたしもこのおろかな金持ちと同じでした。

以前わたしは、健康が一番大切だと思っていました。体が弱かったので、じょうぶになる方法はないかといろいろな健康法を試していました。体に良いものを食べ、サプリメントを飲み、週に2回スイミング教室に通いました。

元気でなければ教会の奉仕もたくさんできないと思い、まず健康になることを目標にしていました。
ところが、スイミング教室に通ってちょうど10年経ったとき、乳癌になりました。体にいいことばかりやっていたのに……とショックでした。

そのとき、健康になることを目的として生きていたことが間違えだとわかりました。弱く生まれたのは、神様が何らかの目的のためにそうしてくださったのです。

もちろん健康になることをめざし、体に気を付けることは悪いことではありません。
ただ、頭の中がそのことでいっぱいで、神様を第一にしていなかったことが間違えだったのです。
弱いからできることがあることに気づきました。弱いままでいいのだと思えました。
posted by 土筆文香 at 21:15| ハテナシリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月06日

神様は厳しい?それとも優しい?

今日自転車で出かけようとしたら後ろのタイヤがパンクしていました。タイヤを見るとひび割れて、滑り止めはすり減ってツルツルになっています。自転車であちこち出かけることが多いので相当な走行距離になったのでしょう。

近くのホームセンターではパンク修理をしてもらえなくなったので、教会の近くにあるイオンまで自転車を押して歩きました。冷たい風が、これでもかとふいていました。

前回パンクしたときは夏の暑い時期でした。熱中症を恐れながら自転車を押して歩いてフラフラになったことを思い出しました。暑いより、寒い方がずっと楽です。
タイヤを交換してもらって帰りはすいすいでした。


昨日は水曜礼拝の後、我が家で聖書輪読会をしました。メンバーの3人が来てくれました。
旧約聖書の民数記を読んでいます。

旧約聖書を読むと、神様の厳しさを知らされます。

神様は、モーセとアロンに逆らったコラたちを罰しました。地が割れて、逆らった者たちは生きたまま地に呑み込まれてしまったのです。
安息日にたきぎを集めていた人を、神様は石打ちの刑にするように告げ、その人は打ち殺されてしまいました。安息日には仕事をしてはいけないという決まりがあるからです。

逆らっただけで地に呑み込まれる? たきぎを集めただけで石打ちの刑? 神様は愛のお方なのにどうして? 旧約聖書の神様は厳しくて、新約聖書の神様は優しい? と思われる方もいるでしょう。

旧約聖書も新約聖書も同じ神様です。神様は義なるお方なので、罪をそのまま見過ごすことができません。神様は人を愛するがゆえに律法を与えてくださいました。その律法を守ることで人はしあわせに生きられるのです。守らなかった時には罰が与えられます。 
ところが、人は罪の性質を持っているので律法を守りきれません。

自分のことを顧みると、恥ずかしくなります。神様を賛美した直後に人を妬んだり、文句を言ったり、つぶやいたり……。たった一日でも一度も罪を犯さずに過ごした日があったでしょうか。

もし、旧約聖書の時代に生きていたら、罰せられていたでしょう。
聖書には「すべての人は罪を犯したので神からの栄誉を受けることができず(ローマ3:23)」と書かれています。

罪を犯し、滅びの道をまっしぐらに進んでいる人たちを見て、神様はなんとか救いたいと思われました。
それで、人間に罰を下す代わりに、ご自分のひとり子のイエス様に罰を与えることにしました。
それは、神様にとって非常に辛いことでした。でも、ひとりひとりの人間を深く愛している神様は、人々をなんとか救いたいと切望されたのです。
罪ある人の代わりに罪のないイエス様を罰することによって、罪ある人たちが救われるのです。

イエス様は、身代わりになるために地上に生まれてきてくださいました。イエス様は、人々の侮辱に耐え、十字架の肉体の痛みに耐え、最後は神様に見捨てられるという辛さを味わってくださいました。
本当は、わたしが受けなければならない苦しみだったのに……。

イエス様が十字架にかかってくださったおかげで、わたしは神様から罰を受けなくてよくなりました。イエス様を信じるだけで永遠の命をいただきました。

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(1ヨハネ4:9〜10)


旧約聖書を読むと、イエス様のしてくださったことの大きさに胸が篤くなり、感謝と喜びに満たされます。
posted by 土筆文香 at 20:56| ハテナシリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月07日

人は人を幸せにできるの?

インフルエンザが猛威を振るっています。ヒックンも月曜日からインフルエンザB型にかかり、39℃の熱が出たと言っていました。先週の土、日に遊びに来たときは元気だったのに……。

火曜日にヒックンママが「お父さんやお母さんにうつしたのではないでしょうか」と心配してメールをくれたときは、皆元気でした。

ところが、主人が夕べから発熱。37.2の微熱ですが、今日病院へ行って調べてもらうと、やはりB型インフルエンザでした。
いつもいちばんにかかるわたしは、いたって元気です。
今年は予防接種を受けていてもかかるということなので、注射をしたからというわけでもなさそうです。


一昨日は今年初めて聖書輪読会をしました。3人で旧約聖書民数記の10〜14章を読みました。
モーセたち、イスラエルの民は神様がくださると約束してくださった地をめざして旅をしていました。モーセは舅に一緒に旅をしようとさそいました。そのとき、次のように言っています。

「私たちは、主があなたがたに与えると言われた場所へ出発するところです。私たちといっしょに行きましょう。私たちはあなたをしあわせにします。主がイスラエルにしあわせを約束しておられるからです。」(民数記10:29)

しあわせという言葉がひらかなで書かれていることに注目しました。『幸せ』とは、この世の幸せですが、『しあわせ』とは、神様が共にいてくださるという『しあわせ』なのだと教えていただきました。

男性が相手の両親に結婚のあいさつをするときよく「御嬢さんを幸せにしますから結婚させてください」と言いますが、人が人を幸せにできるのでしょうか……。

この世の幸せとは、無病息災、商売繁盛の言葉に集約されますね。
災害や事故、病気などを起こさないようにすることは不可能です。人がいくら気を付けても努力しても、長い一生の間、ずうっと幸せでいられるという保障はどこにもありません。
幸せを願うことは悪いことではありません。でも、幸せが人生の目的であったら、その幸せが失われたとき、絶望してしまいますね。

一方「しあわせ」だと、病気をしていても事故や災害に遭っても、どんな辛い目にあっても心に平安があります。それは、神様が一緒にいてくださるから、どんなことが起きてもだいじょうぶと思えるのです。

モーセは舅に「しあわせ」を約束しました。それには根拠があります。「主がイスラエルにしあわせを約束しておられるからです。」とあるように『神様がしあわせにしてくださると約束してくださったのだから、その約束は本当です』と確信を持って言っているのです。

物質的に恵まれても心に憂いがあるとしあわせではありませんね。本当のしあわせとは、人のすべての考えにまさる平安を持っていることです。

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:6〜7)
posted by 土筆文香 at 17:26| ハテナシリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月11日

だれを恐れて生きる?

今日は、久しぶりの聖書輪読会でした。今日は我が家で行うことになり、水曜礼拝の後、メンバーの方々がお弁当を持って集まりました。
今月から12月までの水曜日、主人が仕事に出かけるようになったので、久しぶりに友人を招くことができて嬉しかったです。旧約聖書のレビ記がようやく終わり、民数記に入りました。ひとりで読むのには大変な箇所ですが、5人で輪読したのでしっかり頭に入りました。

日曜日のメッセージのことを書こうとして、忙しくてなかなか書けないでいました。ようやく時間が与えられました。


メッセージは出エジプト記1:15-22からでした。

イスラエルの民は、エジプトで奴隷とされて苦しんでいました。奴隷状態になった理由はいくつかありますが、ひとつはエジプトの王が、人数がどんどん増えていくイスラエル人に抱いた恐れでした。

王は苦役でイスラエルの民を苦しめましたが、苦しめれば苦しめるほどますます増え広がりました。
王はさらに恐ろしい命令を出しました。
それは助産婦に向けられた命令で、イスラエルの民の生んだ赤ん坊が男の子だったら殺せというものでした。

神を恐れたシフラとプアというふたりの助産婦は王の命令に従いませんでした。
シフラとは、美しいという意味で、プアとは香り豊かな花という意味があります。
王にとがめられたとき、シフラとプアは言いました。
「へブル人の女はエジプト人の女と違って活力があるので、助産婦が行く前に産んでしまうのです(出エジプト1:19)」

その言い訳が通ったところがすごいと思いました。
神様は助産婦たちに勇気を与え、言い訳をする知恵を与えてくださいました。
20、21節には「神はこの助産婦たちによくしてくださった。それで、イスラエルの民は増え、非常に強くなった。助産婦たちは神を恐れたので、神は彼女たちの家を栄えさせた」と書かれています。

祝福が家に届く。

「礼拝を捧げているのが家族でひとりだけでも、祝福が家族に及んでいきます」
と牧師先生が言われるのを聞いて涙が出ました。

ちょうどその日は息子一家が来ていましたが、教会へ行ったのはわたしひとりでした。
めぐみ教会ではクリスチャンホームが多く、その日わたしの席の周りは家族そろって礼拝を捧げている人たちばかりだったのです。
家族でわたしひとりだけ恵まれても……と思ってちょっと落ち込んでいたのです。タイムリーに慰めが与えられました。


エジプトの王はその後、イスラエルのすべての男の子を殺すように命じますが、モーセのいのちは神の守りによって助けられます。モーセは後にイスラエルをエジプトから救い出すリーダーとなるのです。


「人への恐れ」は滅びと死に至ります。
「神への恐れ」はいのちにつながります。

だれを恐れて生きるべきなのでしょうか。神を恐れて生きるとき、神様が働いてくださると思いました。

posted by 土筆文香 at 20:59| ハテナシリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月11日

救われるってどういうこと(その2)


昨日に続いて、イエス様を信じたわたしの心に起こった変化について書いています。


E自分の力で人生を切り開いていくという思いから、神様に力をいただいて何かをしようと思うようになる。

自分の力で勝ち取っていくこと。一生懸命頑張ることがすばらしいとする考えが世間にはあります。確かに努力して勝ち取ることができることもあります。
けれども自分の力ではどうしようもなくなるときがあります。たとえば病気をしたり、思わぬ事故にあったり……また、老いて体力に限界がきたり……やる気があっても、努力しようと思っても、どうしようもないことがあり、そのようなとき、自分の力だけでやってきた人は挫折してしまうかもしれません。

でも、神様にたよる人は、どんな困難なことが起きても絶望しません。困難をマイナスではなくプラスにしてしまうのです。
そして何かを成し遂げて人々から称賛されても、神様の力によってできたことなので誇ることがありません。

F心配しすぎて自分を見失うことがない。
心配がなくなるわけではありません。心配はします。でも、神様が助けてくださると信じているのできっと大丈夫と思えるのです。

「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります(マタイ6:34)」

G神様が一緒にいてくださることを実感して平安が与えられる。
不安で胸がざわざわすることもあります。恐れに取りつかれて臆病になってしまうことがあります。そういうときは、神様が共におられることを忘れているときです。

聖書には恐れるなと何度も書かれています。
「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから(イザヤ41:10)」
この聖書の言葉を読むと、神様が一緒にいてくださるのだから、すべておまかせしていたらいいのだというところに落ち着いて、心が安らかになります。

「何事も思い煩らわないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなた方の願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安があなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます(ピリピ4:6,7)」

人のすべての考えにまさる神の平安が与えられたとき、それは天国にいるような気持ちです。そのようなとき『天国の前味をあじわう』と言うのだそうです。

イエス様を信じてわたしのうえに起こった変化はまだまだありますが、書ききれないのでこのへんで終わります。

もともと臆病で神経質で、消極的で悲観主義だったわたしでした。それがすべて逆になってきたのですから、自分でも驚いています。

このことを『救い』とは言いませんが、別の意味で心が救われたと言ってもいいのではないでしょうか。もし、わたしが以前のままの心でいたら、乳がんになったとき、心配のあまり別な病気になっていたと思います。それ以前に、色々な心配事、思い煩いで押しつぶされて死んでしまっていたかもしれません。
わたしは、イエス様を信じて命を助けられたのです。

「彼に信頼する者は、決して失望させられることがない(Tペテロ2:6)」というのは本当だと実感しています。

                        おわり
posted by 土筆文香 at 22:17| ハテナシリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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