2012年12月10日

救われるってどういうこと?

「イエス様を信じて救われるというのは、罪が赦されて、死んだら天国に行くという事だけなのでしょうか?」
という質問をいただきました。

死んでから天国で幸せに過ごせると言われてもピンときませんよね。それより、今の現実で救われたい、苦しみから解放されたいと思いますよね。

状況はともあれ、イエス様を信じると、信じた人の心が変化します。どのように変化するのでしょう……。
わたしの心に起こった変化を書きますね。わたしの場合、洗礼を受けてから急に変化したのではなく、徐々にですが……。

@まず、色々なことに囚われなくなります。
自分では気づかなくてもわたしたちは色々なことに囚われていますね。
たとえば大安とか仏滅。友引にお葬式をしてはいけないとか、仏滅には結婚式をしないとか……。方角が悪いとか、年回りが悪いとか……。
でもそれは根拠のないことですから、多くのクリスチャンは気にしません。かえってすいている仏滅に結婚式をしたりします。すべてのクリスチャンはと書かなかったのは、クリスチャンといっても色々な人がいて、囚われから解放されていない人もいるからです。

A人のうわさや世間体を気にしなくなります。
人のうわさや、人に自分がどう評価されているか気にならなくなります。
わたしはかつて人のうわさを気にしすぎて円形脱毛症や胃にポリープできたことがありました。

B心がイエス様がしてくださったこと(このことについてはこの前(11月26日)のブログで書いたのでここでは詳しく書きません)の喜びにあふれ、辛いことや悲しいことがあってもそれに押しつぶされてしまうことがなくなります。

C自分の価値がわかります。イザヤ書43:4には「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と書かれています。わたしとは神様のこと、あなたとは自分のことです。

自分は生きる価値のない者だと思っていたのですが、この聖書の言葉に出会って価値観が変わりました。高価で尊いと言ってくださる方がおられると知って、どれだけ救われたでしょうか。劣等感からも解放されたのです。

D憎しみから解放されます。嫌いな人、どうしても受け入れられない人、赦せない人がいました。どうしたら赦せるのかわかりませんでした。ところが、この人のためにもイエス様が十字架にかかって死んでくださったこと、神様はこの人のことをも愛しておられるのだと知ったとき、憎しみが少しずつ溶けてなくなっていきました。

人を憎むことはエネルギーがいります。そのエネルギーを憎しみに費やすのではなく、神様に喜ばれることのために使うことができたらいいですね。

                                  つづく


日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。

posted by 土筆文香 at 17:00| ハテナシリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月29日

本当の幸せとは?

今日は朝からみぞれが降っていました。こごえそうに寒かったのですが、ようやく風邪が治ったので、水曜礼拝に行ってきました。帰りは雪がうっすらと積もって銀世界でした。

雪は、どんなものでもきれいに見せて下さいます。真っ黒でドロドロに汚れたものでも、その上に雪が積もれば白くなります。罪に汚れた心をきよくしてくださるイエス様のことを想いながら歩いていました。

今日は先日の日曜礼拝のメッセージで印象に残ったことから書かせていただきます。

詩篇139編1-4には次のように書かれています


主よ。あなたは私を探り、
私を知っておられます。
あなたこそは私のすわるのも、
立つのも知っておられ、
私の思いを遠くから読みとられます。
あまたは私の歩みと私の伏すのを見守り、
私の道をことごとく知っておられます。
ことばが私の舌にのぼる前に、
なんと主よ、
あなたはそれをことごとく知っておられます。

詩篇139篇の作者であるダビデは、私のすべてをご存じな神がおられるから、私の存在理由があると告白しています。私のために計画を持たれ、私の人生を見守り続ける神がおられるということ、そこに私の存在理由があるとダビデは告白します。ダビデが告白した神、この方こそイエス・キリストです。キリストにすべての宝が隠されています。

ある青年に将来の夢を聞いたそうです。
「○○大学に合格すること。」と答えたので「その次は?」と尋ねると、「一流企業に勤めたい。」という答えが返ってきます。「その次は?」と尋ねると「素敵な女性と結婚したい」
「その次は?」「子どもがほしい」「その次は?」「社会で認められて、地位と財産を得たい」「その次は?」「退職して悠々自適な生活をおくりたい」「その次は?」「孫が生まれて、孫たちと幸せに過ごしたい」「その次は?」
どこまでも「その次は?」と聞かれるので、青年は怒り、「その次は死ぬ!」と言ったそうです。
すると、「その次は?」とさらに聞かれました。若者が答えられないでいると、質問した人は「神の前に立つ」と言いました。

地上で良い暮らしをすることを人生の目的としている人がどれだけ多くいるでしょうか……。ほとんどの人が幸せを求めて生きています。でも、幸せではなく、きよさを求めて生きることが大切だ
と牧師先生が言われました。

幸せ(happiness)は偶然起こる(happen)から出た言葉だそうです。偶然に幸せになることを求めるというのは変ですね。

イエス様は「心の貧しい者は幸いです。」と言われましたが、このときの幸いは(happiness)ではなく、祝福(bless)という意味です。(bless)は血を流す(bleed)からきた言葉で、イエス・キリストの十字架を通した幸いという意味だと聞いてはっとしました。

本当の幸せとは、イエス・キリストの血潮によってきよさに染められて生きることです。
Happinessになることを求めるのでなく、blessを求める人生でありたいと思いました。


posted by 土筆文香 at 21:06| ハテナシリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月06日

人はなぜ病気になるの?

今日はメッセージの紹介ではなく、メッセージを聞いて考えたことを書きます。

アメリカの公立小学校4年生の宿題で、中世ヨーロッパの女の子が書いた日記を読んでどう思うかという質問が出たそうです。

その日記には、「神様はなぜ一度に病気を治してくださらなかったのか。神様はなぜひとりひとりに手を置いて病を癒すという効率の悪い事をされたのか。一度に治る薬や、食べればどんな病気でも治る草を与えて下さらなかったのか。それより、どうして人が病気にならないように造って下さらなかったのか?」
というようなことが書かれていたそうです。

さすがキリスト教国だけあって、公立小学校で子どもにこのような文章を読ませ、考えさせるとはすごい!と思いました。

日記に書かれている神様というのはイエス・キリストのことで、聖書にはイエス・キリストが病を癒された記事がたくさん書かれています。ただ病を癒すだけでなく、ひとりひとり、その人に応じた対応をされ、言葉がけをされています。

なぜ病気というものが存在するのでしょうか……人類の歴史の中で多くの人が病に悩まされ、苦しめられてきました。科学は発達し、特効薬が作られましたが、恐ろしい病が根絶したかと思うと、新たに恐ろしい病気が発生して、それは不思議に思う程です。
どんな病気にでも効く草や薬があればいいのに……それより病気にかからない体にしてほしいと、病に苦しめられた人は誰でも思うことでしょう。

もし、どんな病にも効く草があって、誰でもそれを食べることができ、病気というものが世界からなくなってしまったらどうでしょう。この世界はパラダイスのように幸福に満ち溢れるでしょうか?
そうではないと思います。病気がなくなればすべての悩みが解決するわけではないですね。

病気にかからなければ、各々が自分の欲するままに行動し、何かなし得たときは、自分の力でできたのだと誇り、立ち止まって自分を顧みることがなくなるのではないでしょうか。
そして、病にかかることがなければ、人は神様を必要としなくなってしまうと思います。

「イエス様が、病人をいちどに治すのではなく、ひとりひとり癒したのは、ひとりひとりと関わることを大切にされたからです。羊飼いが羊に対してするように、神様はその人の悩みを見、叫び声を聞き、痛みを知ることを望んでおられます。」と牧師先生が言われました。

わたしは、神様が共におられることを知ったので、たとえ病気が治らなくても幸せです。
以前は何が何でも病気を治して下さいと訴えていたわたしですが、病気が治ることより神様が共におられるという実感を得ることの方が大切だと気づきました。

聖書の言葉
「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません、あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。(詩篇23:4)」
posted by 土筆文香 at 16:42| ハテナシリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月20日

心の病は癒されるのでしょうか?

今年は日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)60周年を迎えます。秋に行われる記念会の準備委員として奉仕させていただいています。

思えば初めてJCPの集いに出かけたのは50周年記念会のときでした。あれからちょうど10年。そのとき、テキパキ動いている委員の人たちが輝いて見えたのを覚えています。いつかわたしもここで奉仕できたらいいのに……と、思いました。

何年かたち、JCPの実行委員のひとりに加えていただきました。奉仕できることを感謝しています。
今、60周年でJCPから出版する本の編集作業をしています。

今週はそれに加えてCSメッセージ準備、分級準備、教会の小グループ読書会の発表準備、OBIのレポート作成。ネット読書会の課題本(ドストエフスキー『白痴』)を読むこと。やることが山積みです。


先日の水曜礼拝では、境界例(境界性人格障害)が癒された方のあかしを聞きました。
子どものころ受けた心の傷に蓋をして、自分でも気づかずにいたそうですが、あるとき一気に噴き出してきたそうです。

それまでは、自分の弱さを人に見せないようにしてきたけれど、鬱状態になってダウンしてしまったとき、自分の弱さと向き合うことになったと言われました。
12ステップで心の内を話し、人に聞いてもらうことで心が解放され、キリストからの応答を受けて癒されたそうです。

「魂の深いところにある本当の自分の姿を見つめたとき、顔をそむけたくなるけれど、そこにおられるイエス様が傷に触れて下さる」とOBIで教えていただきましたが、そのことなんだなあ……と思いました。


心病む者とそうでない者の区別はどこにあるのでしょう……。健全な魂と言われたとしても、完全な人間はいないので、100%健康な心を持っている人はいないのではないでしょうか。
わたしも境界例かもしれません。確かに心が病んでいる部分がありました。いや、今でもあることに気づいています。

心に傷があってもイエス様を信じたときに自動的に癒されると、かつては思っていました。でも、そうではありません。イエス様を信じていても、心病む人は多いのです。

ただ、イエス様を信じ傷をみつめたとき、癒しが始まるのだと思います。でも、傷に蓋をしてしまっている場合、そしてそのことに自分で気づかないときは難しいですね。
深い心の傷は、簡単には治りません。時間がかかります。でも、必ず治ります。

15年前の自分の心を思い出してみると、確かに病んでいました。他人から欠点や過ちを指摘されると、全人格を否定されたように思って異常なほど傷ついていました。それは、劣等感から解放されていなくて、自分が人間的に欠けた者だと思っていたからです。

また、母親から嫌われることへの恐怖を幼いころから抱いていて、それがずうっと続いていました。結婚して何年たっていても母親に叱られる夢をよく見ていました。

10年ぐらい前までは、体が弱いことが受け入れられなくて、悲しんでいました。
感情が不安定で、ときどきわけもなく虚しくなったりしました。

でも、今は、劣等感からも、母親の恐怖からも解放され、病も弱さも受け入れられて平安が与えられています。

カウンセリングを受けたわけでもないのに、どのようにしてそうなったのでしょう……。いつ、どこで、どのようにして、なぜ癒されたのか……思い巡らしていますが、はっきりわかりません。誰に癒されたかだけはわかっています。それは、イエス・キリストです。


思うことがあって、フェイスブック退会しました。(ちゃんと退会できているかわからないのですが……)
しなければならないことが多くて、フェイスブックを見る時間がないというのが主な理由です。友人になって下さった方、ありがとうございました。


posted by 土筆文香 at 15:38| ハテナシリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月28日

なぜ苦しまなくてはならないの?

今日は今年最後の水曜礼拝でした。毎年、年末の水曜礼拝では「今年の10大ニュースを書きましょう」と言って紙が配られます。

今年は少し違っていました。まず申命記8:2-6を読んで感じたことを書くように言われました。
申命記8:2-6にはモーセの言葉が書かれています。

モーセはイスラエルの民に『あなたがたは、エジプトの地から脱出して40年かかって約束の地に着いた。そのときのことを覚えているように。神様は40年の間に民を苦しめたが、それはあなたの心の内にあるものをあなた自身が知るためであった。
荒野ではマナを食べさせたが、人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出るもので生きることを知らせるためだった。』
という意味のことを語り、最後に

「あなたの神、主の命令を守って、その道に歩み、主を恐れなさい。(申命記8:6)」

と結んでいます。
わたしは次のような文章を書きました。


わたしはイスラエル人の荒野の旅を自分の人生に重ね合わせて読みました。
子どものころから喘息で呼吸困難という苦しみに耐えてきました。その後、乳がんになって死の淵に立たされました。病気ばかりして精神的にもつらかったです。

なぜ苦しまなくてはならないのか? 長い間模索していましたが、これらすべては主の訓練だったのです。

私の心は、何を食べようか、何を着ようか、そして子育てのこと、健康になるにはどうしたらいいか……などでいっぱいでした。

乳がんになって自分が死ぬかもしれないと思った時、ようやく大切なことはこのようなことではない。主の道に歩むことだと気づかされました。

わたしが主の道に歩み、主を恐れて生きるようにさせるため苦しみが与えられたのです。

                                 
posted by 土筆文香 at 17:07| ハテナシリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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