2011年07月16日

クリスチャンって立派な人?

クリスチャンというと、真面目とか立派とか品行方正という言葉を思い浮かべる人が多いようです。

かつてわたしは(こんないい加減なわたしがクリスチャンといえるだろうか……わたしがクリスチャンだと知ったら、みんなつまずいてしまう)と恐れ、クリスチャンであることをまわりの人に言えませんでした。
でも、その考えは間違っていました。


家庭集会では『 神の熱心 』 (朴永善著 モリソン社)から アブラハムについて学びました。
アブラハムが信仰の父と呼ばれるのにふさわしい人物であったかどうかについて問題提起しています。

アブラハムといえば、「ひとり息子のイサクを捧げよ」という神の命令に忠実だった信仰深い人を思い浮かべます。
でも、最初から信仰深かったわけではありません。

神様は、偶像礼拝の盛んな町ウルに住んでいたアブラハムにカナンの地へ行くように言われます。
アブラハムは信仰深かったので、神様から選ばれたのだ。そして信仰によって神様の言葉に従ったのだと思いがちです。実際わたしもそう思っていました。

でも、その時点では、アブラハムも父テラに習って偶像を拝んでいました。偶像礼拝は罪深いことです。

『アブラハムは罪深い者であったけれど、神様はそこから連れ出された』
と聞いて自分が誤解をしていたことに気づきました。

アブラハムの前に主が現れ、アブラハムは主の声を聞いてウルから出て行きます。ひとりでではなく、父のテラと親族一同が一緒でした。

神様はカナンへ行くように言われましたが、アブラハム一行はカナンではなく、カランの地まで行ってそこに住みつきます。(創世記11:31)

カランはメソポタミア文明圏のさいはての地だそうです。彼らがカランより先に行けなかったのは、当時の社会において自分の財産と命を守るため文化圏を越えられなかったからなのだそうです。
越えられなかったということは、テラにもアブラハムにも信仰と呼べるものがなかったことを意味します。宗教的な恐れからカランまでやってきたにすぎなかったのです。

テラがカランの地で死んだ後、神様は再びアブラハムに現れ、アブラハムにカランから出て示す地に行きなさい。そうすれば祝福しますと言われます。そしてようやくアブラハムはカランから旅立つのです。


『アブラハムが祝福されたのは、そうなるだけの然るべき理由が彼にあったはずだと思ってしまうことが問題である』

と聞いて、わたしの中にもなんとなくそう思っていた自分がいたことに気づきました。
テキストには「すべての結果には原因が必要だと考えることは不信仰です」と書かれていました。

アブラハムが正しくて立派だったから神様が選ばれたわけではないことを思うと、クリスチャンは正しい人、立派でなければいけないという考えは間違っていることになります。



『クリスチャンとは正しい人ではなく、自分のどうしようもなさに気づいている人である』
と牧師先生が言われました。その通りです。


「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。(ローマ3:24)」


posted by 土筆文香 at 12:11| ハテナシリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月07日

『目からうろこ』の語源は?

先週の礼拝ではサウロの回心のメッセージを聞きました。(6/1のブログに書いています)

クリスチャンを迫害していたサウロ(パウロ)でしたが、ダマスコの途上光に打たれて倒れ、イエスの声が聞こえたとき180度変えられました。

でも、なぜサウロはそのとき劇的に変化したのでしょうか。
5日の礼拝メッセージの一部を紹介します。

サウロが劇的な変化をした根拠として2つのことが考えられます。

@サウロ自身が自分の中に葛藤をもっていたのではないでしょうか。
ローマ7:7-10に書かれているように、彼は律法を命がけで守ろうとしていたのですが、守りきれない自分に悩んでいました。

(律法とは神様がモーセを通して与えて下さった十戒のことで、「あなたの隣人の物を欲しがってはならない」という戒めがあります)

サウロは、『むさぼってはならない』と知っているのにむさぼっていたことを告白しています。

Aサウロは良心の呵責を感じていたのではないでしょうか。
クリスチャンを迫害し、ステパノを石打ちにすることに加担しました。ステパノの姿をみて驚いていたかもしれません。クリスチャンたちの敬虔な姿、熱心さをみているのにその者達を捕え、死にまで追いやっていましたが、そんな権利が自分にあるのかと悩んでいたかもしれません。

使徒26-14にはサウロが光に当てられたとき、『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ』とイエス様の声がしたと告白しています。

それは、サウロの中にとげがあったことを意味します。とげとは、『律法を完全に守れないお前にクリスチャンを迫害する資格があるのか』と心をチクリチクリと刺されるとげです。
光に打たれる前に葛藤や良心の呵責や自分の罪深さを感じていたから劇的回心が起こったのです。

目の見えなくなったサウロは、葛藤と苦悩の3日間を過ごし、そののちアナニヤの訪問を受けます。
アナニヤは、イエス様から「立って『まっすぐ』という街路に行き、サウロというタルソ人をユダの家に尋ねなさい。そこで、彼は祈っています(使徒9:11)」と言われます。

アナニヤは、サウロが今までクリスチャンにどんなにひどい迫害をしてきたか知っていたので恐れました。
でも、イエス様からサウロが異邦人にイエスの名を運ぶという使命を持つ人であることを伝えられ、恐れを克服して『まっすぐ』という街路に行き、サウロに会いました。

アナニヤに手を置かれて、サウロの目からうろこのようなものが落ち、サウロは再び見えるようになります。(「目からうろこ」という言葉は、この聖書の記述からきてきるのです。)
サウロがパウロになった瞬間です。

アナニヤはサウロに十字架の意味やペンテコステで起こったことを話し、サウロはバプテスマを受けます。

「わたしたちは土浦のアナニヤです。『まっすぐ』という道に行ってごらんなさいと神様に言われているのです」
と牧師先生が言われました。


アナニヤがサウロを訪れるとき恐れたのは当然だと思います。でも、恐れを克服し、主の言葉に従って『まっすぐ』という道に出かけたことが素晴らしいと思いました。

アナニヤがいたから、パウロは伝道者として使命をまっとうすることができたのですね。


posted by 土筆文香 at 13:51| ハテナシリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月21日

奉仕とは?

OBI(お茶の水聖書学院)で奉仕について学んでいます。
奉仕といえば、一般の人はボランティア活動を思い浮かべるでしょう。

わたしは、教会生活の中での奉仕を思い浮かべていました。そうではなくて、奉仕の範囲は日常生活全般にわたっていることに気づかされました。

奉仕(stewardship)とは、神が与えて下さった物を管理して行うことなのだそうです。

『奉仕は、私たちに内在する神様ご自身のご性質の表現である』
『自分に与えられた物で何ひとつ神様に与えられていない物はない』
と教えていただきました。

イエス様が語られたとえの中で、タラントのたとえがあります。
主人が、しもべにそれぞれ5タラント、2タラント、1タラントを預けて旅に出ました。5タラント預かった人は、それで商売をしてさらに5タラントもうけました。2タラント預かった人も2タラントもうけました。

ところが1タラント預かった人は土を掘ってお金を隠しました。
帰って来た主人は、しもべたちからそれぞれ報告を受けて、5タラントのしもべと2タラントのしもべには「よくやった。良い忠実なしもべだ・・・・」と褒めます。

ところが、1タラントのしもべには、1タラントを用いないで隠しておいたことをしかり、取り上げてしまいました。(マタイ25:14-29)

わたしは最初この箇所を読んだ時、1タラントのしもべは、お金をなくしたわけではないのにどうしてしかられたのかわかりませんでした。また、3人とも同じ額を預けなかったのはなぜだろうとも思いました。1タラントしか預けられなかったしもべは、ほかの二人より額が少ないからすねていたのでしょうか……。

でも、1タラントというのは当時の約6000日分の賃金だそうです。一日の賃金を一万円と考えると6千万円にもなります。額の大きさに驚きました。
6千万円も預けられて、少ないなんて言えないですね。

わたしたちは神様からタラント(才能)を預けられているのです。神様は、それをご自身の栄光のために用いてほしいと願って託されたのです。少ししかタラントがないから何もできないなんて言えないですね。

わたしに今与えられているお金や時間や健康。これらも神様から預けられたものですから無駄にできないなあと思いました。


一昨日、久々にわたしのHP生かされて…土筆文香(詩の部屋)を更新しました。ごらんください。

posted by 土筆文香 at 11:22| ハテナシリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月26日

イースターって何?

23日の土曜日、ヒックンとママが来ました。主人は、朝からはりきって掃除をし、わたしは夕食の下ごしらえと昼食の用意をしながら待っていました。

居間には主人が段ボールで手作りした高速道路をセットし、おもちゃを並べて、ヒックンが楽しそうにミニカーで遊ぶ姿を想像していました。

ところが、その日はヒックンの遊ぶ姿を見ることができませんでした。いつもは満面の笑みをみせてくれるヒックンですが、笑顔がなく、ママに抱かれて眠そうな顔でやってきました。
熱を測ると39.8℃もありました。午前中は元気だったのに……と、ママもびっくり。
何も食べられず、おもちゃにも興味示さず、ただぐったりと寝ているばかりです。
治るまで泊まってもらうことにしました。

ママが病院へ連れていくと、インフルエンザではなかったのでほっとしました。座薬を入れると熱が下がってきて、笑顔でおしゃべりをはじめました。ヒックンは月曜日には平熱になりましたが、一日我が家で過ごし、今日は保育園に行きました。


日曜はイースター礼拝でした。教会学校ではパネルシアターを使ってわたしがメッセージをさせていただきました。以下はメッセージのあらましです。(聖書箇所ルカ24:1-12)



イエス様が十字架につけられて死に、墓に葬られて後、3日目の朝のことです。
マグダラのマリヤ、ヤコブの母マリヤ、ヨハンナの3人は、イエス様の体に香油をぬろうと墓へ向かっていました。マリヤたちは、墓が大きな石でふさがれているのを知っていました。自分たちだけでは石を動かすことができないのですが、どうしてもイエス様に香油をぬってさしあげたいと思って出かけました。

ところが、墓の前に行くと、石はすでにころがしてありました。中をのぞくと墓は空っぽでした。マリヤたちがおろおろしていると、神様の御使いがやってききました。マリヤたちは驚いてひれ伏しました。

御使いが言いました。「あなたがたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたからです」

御使いは、イエス様がガリラヤにおられたころ、ご自分が十字架につけられ、3日目によみがえることを話していたと告げました。それを聞いて、マリヤたちは思い出しました。そして、御使いの言葉を信じて大喜びで他の弟子たちのところへいきました。

「墓はからっぽでした。主はよみがえられたのです!」
マリヤたちは伝えましたが、弟子たちは「そんなこと、あるはずがない」と、信じませんでした。
ペテロとヨセフだけは墓に確かめに行きました。墓はからっぽで、中にはイエス様の体を包んでいた亜麻布だけがありました。

どんな偉い人でも死んだら骨が残ります。でも、イエス様の骨は世界中どこを探しても見当たりません。それは、死んだままではなく、よみがえられたからです。
イエス様は今も生きておられ、わたしたちと一緒にいてくださいます。

イエス様がよみがえってくださったおかげで、イエス様を信じる人は罪が赦され、永遠の命が与えられるというすばらしい約束が実現しました。

イエス様の復活をお祝いする日がイースターです。イエス様がよみがえってくださったことを喜び、イースターの意味を知らない人に伝えましょう。


posted by 土筆文香 at 13:01| ハテナシリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月16日

信仰とは? 救いとは?


エペソ人への手紙2章から「信仰による救い」ということを学びました。
「あなたは信仰といわれて何を思い浮かべますか?」「救われるとはどういうことですか?」
という質問がありましたが、わかりきったことなのにちゃんと答えられませんでした。


信仰と聞くと、あまりいいイメージを抱かない人が多いと思います。日本人のもつ「信仰」は「信心」とも言い換えることができます。信じる対象は何であれ、修練して自分が信じたという一方通行的なものです。キリスト教でいう信仰とは、神様と人格的なやりとりのある双方通行です。
信じる対象である神、イエス・キリストがどのようなお方であるか聖書に示されています。修練したからというのではなく、神様が働きかけて下さって信仰を持つことができ、救われるのです。



「救いとは人間が本来あるべき姿に戻ること」
なのだと聞いて目が開かれた思いでした。罪を犯す前のアダムは永遠の命を持っていました。神様はご自身の姿に似せて人間を造られたと創世記に書かれています。
神の姿というのは、見た目ではなく性質です。人間に受け継がれた神の性質というのは、「イメージしたものを造り出すことができる」ことと、「言葉をあやつることができる」ことの2つです。この2つは動物にはない性質です。


神様と親しく交わり、永遠の命を持っていたアダムとエバでしたが、神様の禁じた木の実を食べて罪を犯してしまいます。そのせいで死が入ってきました。
人はだれでもいつかは死ぬことがわかっていますが、普段はそのことを考えないで生活しています。でも、つきつめて考えてみると、死からのがれる方法を求めているのではないでしょうか。色々な宗教があるのも、科学が発展していったのも死を克服する方法を考えたゆえではないかと……。


わたしたちクリスチャンは死を克服された方を知っています。それはイエス・キリストです。キリストを信じることによって、人間の本来あるべき姿、永遠の命を持つ者となれるのです。でも、そのことを知らない人がどれだけたくさんいることでしょう……。伝えなくてはならないと思いました。

キリスト教信仰は、いろいろある宗教の中から選んだのではなく、初めからおられた神の存在に気づかされたということなのです。

この方(イエス)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。(ヨハネ1:12)

posted by 土筆文香 at 21:52| ハテナシリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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