2010年07月03日

どうしたら自分を好きになれるの?(4)


体の弱いことを受け入れても、まだ自分を好きになれませんでした。
誉められると、口では謙遜なことを言っていても、心の中では鼻高々になっていたり、逆に人からけなされるとひどく傷つき、その人を恨んだり……。人の言葉に惑わされる弱い自分が嫌いでした。また、自分の心の醜さにも気付いていました。そのことについては、神さまから赦していただいていることも知っていました。それなのに自分で自分が赦せなかったのです。何年もその葛藤の中にいました。

精神的につらいできごとが起きたとき、真剣に神さまを求めました。朝早く起きてデボーション(聖書を読み、祈る)を始め、昼と夜にもデボーションをし、心に残った聖書の言葉や感想をノートに書き綴っていきました。何か月か過ぎたとき、目に見える状況には変化はありませんでしたが、悲しみが喜びに、嘆きは感謝に変わっていきました。神さまがどのようなお方かということ、イエスさまがしてくださったことの大きさがわかったからです。


神さまに目を向けていると、人の言葉に惑わされなくなってきました。誉められたときは、神さまに栄光をお返しして、神さまをほめたたえれば高慢にならなくてすみます。けなされたときは、謙遜に受け止められ、必要以上に傷つかないようになりました。心の醜さについては、神さまにすべて告白することによって、赦され、きよくしていただいているのだという実感が沸いてきました。


旧約聖書の詩編にそれはあなたがわたしの内臓を造り、母の胎のうちでわたしを組み立てられたからです(139:13)
とありますが、自分が偶然生まれたのではなく、神の手によって造られたことを再確認しました。神さまが造って下さった自分のことを嫌っていたら、造った方に失礼ではないかと思いました。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師と書かれていますが、粘土である自分が、陶器師に対して文句を言う資格などないのです。
さらに神さまはわたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)と言ってくださるではありませんか。


こんなわたしが尊いですって? と驚きました。神さまは目的を持ってわたしのことを造ってくれたのです。必要のない人間はひとりもいないのだと知ったとき、体が弱いことも、気が弱いことも、神さまのご計画なのではないかと思うようになりました。そのときはじめて自分のことがいとおしいと思えました。

自分のことが好きになれたので、乳癌になったときは、すっと受け入れられました。乳癌は神さまがわたしに必要だから下さったのだと、神さまの善意を信じました。もちろん、葛藤はありましたし、リンパ転移がわかったときは悩み苦しみましたが、乳癌である自分のことを認めることができたのです。


これらの聖書の言葉は、わたしにだけでわなく、いまこのブログを読んでおられるあなたに向かって贈られた言葉です。神さまが尊いと言ってくださっているあなた。かけがえのないあなた。どうか命を大切にして下さい。これはわたしの切なる願いです。


おわり

posted by 土筆文香 at 11:32| ハテナシリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月22日

どうしたら自分を好きになれるの?(3)


自分のことが嫌いだと、人を愛することができません。(ここでいう愛は、男女の愛ではなくアガぺーの愛です。)わたしは何年もの長い間、人を愛するかわりに憎み続けていました。

神さまのことをも憎みました。それは、洗礼は受けたものの救いの意味も、神さまがどういうお方かも知らなかったときで、教会からも離れていた時期のことです。
結婚して男の子が与えられたのですが、喘息に再び苦しむようになったとき、神さまは意地悪をしてわたしを苦しめるのだと思ってしまいました。

喘息は、今はほとんど副作用のない予防薬があるので、医師の指示通りに従っていれば、ひどい発作で苦しむことはありません。でも、当時(23年前)は予防薬が出てきたばかりのころで、わたしの通っていた小さな医院では処方されませんでした。
長男が生まれた翌年から秋ごとに発作が起きるようになりました。だんだん薬が効かなくなり、ステロイド剤を飲まなければ治らなくなっていました。ステロイド剤の副作用で発作が起きやすくなり、それを抑えるためにまたステロイド剤を飲むという悪循環を繰り返していました。


喘息持ちであることを人に話すのもいやでしたし、発作の起きていないときは、自分自身忘れようとしていました。秋になって胸がゼーゼーいいだすと、ぞっとして鳥肌がたちました。喘息を憎み、喘息持ちである自分を嫌いました。
喘息になったこともあって再び教会に行くようになったことを思うと、喘息を今は感謝していますが、当時はとても受け入れられませんでした。予防薬を飲むようになり、喘息が治ってきても体が弱いことには変わりなく、わたしは自分のことをオンボロ機械と言って自嘲していました。 


運動ができないことや不器用なことは、仕方ないと思ったのですが、体の弱いことはなかなか受け入れられず、教会の奉仕をするのにも体力がなければ充分できないと思い、聖書より健康の本を熱心に読んでいました。水泳教室に通っていたのも丈夫になりたい一心からでした。
あるとき、もし体が丈夫だったら自分は何をしていただろう?と考えました。きっと働きにでていたでしょう。そうでなければ、教会の奉仕で毎日出かけていたでしょう。


でもそれができなくて、子育てをしながら童話を書いている。もしかして、神さまがわたしに与えて下さった使命は書くことなのかもしれない。神さまは、外に出かけていくより、家にいて書くことを望んでおられるのかもしれない。そのために多すぎもなく少なすぎることもない体力をくださっているのだ。
そう思ったとき、体が弱いことを受け入れることができました。


ニューヨークリハビリテーション研究所の壁に書かれた詩を紹介します。


病者の祈り

事を成そうとして力を与えてほしいと神に求めたのに慎み深く従順であるようにと弱さを授かった
より偉大なことができるように健康を求めたのによりよきことができるようにと病弱を与えられた
幸せになろうとして富を求めたのに賢明であるようにと貧困を授かった
世の人々の賞賛を得ようとして権力を求めたのに神の前にひざまずくようにと弱さを授かった
人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのにあらゆるものを喜べるようにと生命を授かった
求めたものは一つとして与えられなかったが願いはすべて聞き届けられた
神の意にそわぬ者であるにもかかわらず心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた
私はあらゆる人々の中で最も豊かに祝福されたのだ


                    つづく
posted by 土筆文香 at 20:01| ハテナシリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月09日

どうしたら自分を好きになれるの?(2)


わたしが自分を好きになれたわけを書く前に、なぜ自分のことが嫌いだったかということをお話ししましょう。

それは、強い劣等感をいだいていたからです。手先が不器用なこと、運動が苦手なこと、体が弱かったことは事実ですが、長所もあったはずです。それなのに、全てにおいて自分は人より劣っている……人間失格のように思ってしまったのです。

当時のわたしの願いは、「普通の人になりたい」でした。でも、普通の人とは何でしょう? 普通とは、何を基準に考えて言ったのでしょうか? ひとりひとり違うのに「普通の人になりたい」というのは、おかしな考えですね。
なぜそんなに劣等感が強かったかについては、母の影響が大きかったのですが、それは別の機会に書きます。


学校でクラスメートに声をかけられなかったのは、劣等感が強かったことと、自意識過剰だったことがその原因です。異常なほどに人の目を意識し、『自分のことを人はどう思っているのか?』と常に考えていました。また、自分が何か話したら、どういう答えがかえってくるのだろうと心配し、たいていは悪いことを想像して何も言えなくなってしまうのです。

たとえば教科書を忘れて困ったとき、隣の席の人に「見せて」と言いたいのに断られることを恐れて言えません。遠足でひとりでお弁当を食べるのがつらくて、Aちゃんに「お弁当一緒に食べよう」と言おうとします。でも、いやだと断られたらどうしようと思い、言えません。(たとい断られても、全人格を否定されたわけではないのに……)そんな、いくじのない自分のことが嫌いでした。


わたしの場合は、かなり極端な例ですが、人の目を気にしたり、自分のことを他の人はどう思っているのだろうと考える人は多いのではないでしょうか。
また、いつも自分を人と比較して考えていました。あの人より勉強ができない。あの人より体が弱い。あの人より運動ができない……。劣等感を抱くのは人と比較することから始まるのです。

高校生になると、少し前向きになったようですが、自分を励ますために自分より成績の悪い人を見て、「あの人よりましだ」と思ったりしました。それは劣等感の裏返しにある優越感で、やはり人との比較からきています。
いずれにしても、人と比較したり、人のことを気にしてばかりいるときには心に平安はなく、自分を好きになることはできません。


イエスさまの弟子ペテロは、イエスさまからたしなめられています。

ペテロは彼(ヨハネ)を見て、イエスに言った。「主よ、この人はどうですか。」
イエスはペテロに言われた。「わたしが来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」(ヨハネ21:21−22)


この聖書の箇所を読むと、あの人、この人ではなく、常に自分はどうあるべきなのかとするどく迫られる思いです。
                つづく
posted by 土筆文香 at 21:07| ハテナシリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月06日

どうじたら自分を好きになれるの?(1)


以前、新聞に中学の授業で自殺についての授業の記事が載っていました。
「自殺抑制ロールプレイング」といって、ビルの屋上から飛び降りようとしている生徒と説得を試みる同級生が2人1組で対話し、ワークシートに書いて発表したり、もし自分が自殺したら、家族や周りの人はどのような対話をするか想像して書き込ませたり……自殺ということをタブー視するのではなく、正面からとらえること。「命を大切にする教育」を充実させていくことの必要性について書かれていました。


(自殺の兆候がみられて)気になる子供への対応として、
1話しかける
2心配していることを伝える
3はっきりと言葉に出して自殺を考えているか尋ねる
4危険を感じたら、子供をひとりにしない、周りの応援を求める、専門家の助言を得るなど子供の安全を確保する。
と新聞には書かれていました。


話しかけられること。自分のことを心配し、気にかけてくれる人がいることを知ることによって、自殺が予防できることは確かです。でも完全ではありません。大人に自殺を考えているか尋ねられても正直に言える子どもは少ないでしょうし、周りが危険を察知できないことも多いのでは……?
何度も書いていますが、わたしは中学生のとき、ずうっと死にたいと思っていました。童話や小説を書き始めたのは、子供の自殺を止めたかったからです。

 わたしが自殺したかったときの心境を思い出しながら、自殺予防について考えてみました。

中2でひとりも友だちがいなかったとき、孤立していてもだれも話しかけてくれませんでした。シカトされていたわけではありません。
道徳の授業で「思春期になると、友だちといるより、ひとりでいたいと思う人がいるので、そういう人には声をかけないように」と先生がいったとき、何人もの人がわたしのことを見ました。わたしは、なぜ先生がそんなことを言ったのかと悲しくなりました。
クラスメートに自分から声をかけることができなっかったので、声をかけられるのを待ち望んでいたからです。その先生の発言のせいかどうかはわかりませんが、教室で1年間、ほとんど誰とも話しをしないまま過ごしました。


孤独になって、人生の空しさを感じるようになりました。また、自分のことが大嫌いで、自分の容姿、声、歩き方、小さな癖に至るまで嫌悪し、消えていなくなればいいのにと思っていました。
自分が死んだら、両親は少し悲しむかもしれないけれど、周りの人は「せいせいした」と言って喜ぶだろうと想像して、自分の墓の前で大勢の人たちが笑っている絵を描きました。


それを祖母に見られてしまったのです。何の絵かと問われて、絵の説明をすると、祖母は「おまえが死んで、誰が喜ぶんだ!」と怒りながら体をふるわせて泣きました。
わたしは、はっとして祖母にあやまりました。孫の中でわたしのことがいちばんかわいいといってくれている祖母。自殺したら、少なくとも祖母は深く悲しむだろう。こんな年寄りを悲しませてはいけないと思って自殺を思いとどまったのでした。そのときは、不思議に両親を悲しませてはいけないとは思わなかったのです。
わたしにとって祖母の存在が自殺防止になりましたが、現代では、祖父母と暮らしている子供は少ないですね。


自殺しないためには、まず自分を好きになること。欠点を含めて自分のことを受け入れることが大切だと思います。でも、自己嫌悪をいだいている人に自分を好きになれと言っても簡単に好きになれませんよね。

わたしが自分を好きになれたわけは……次回書きます。

                 つづく
posted by 土筆文香 at 16:52| ハテナシリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月21日

孤独は悪いことなのですか?


わたしの家の近くで毎年10月に大きな花火大会が行われています。そのときは他府県からも人が訪れ、何万人もの人たちが集まってきます。感謝なことに我が家のベランダから花火が見えるので、外へ出ていかなくてすみます。去年、花火大会の最中に妹のケイタイからメールがきました。急ぎの用事だったので返事をしようとしたのですが、何度やっても送信できません。

「この付近にたくさん人が集まっているから送信できないんだよ」
と娘がいいました。わたしは、なぜ人が大勢いるとメールが送信できないのかわかりませんでした。
「どうして?」
と娘にたずねると、
「花火を見ながら、ケイタイ使っている人が多いからだよ」
 なるほどと納得しました。花火のようすをメールで知らせたり、写メールで送ったりしているからなのです。現代は、人が多いところでは、電波が入り乱れているのですね。電波は目に見えないけれど、体に悪影響はないのでしょうか? 少し不安になります。


ケイタイ依存症というのがあるそうです。常にケイタイを手にしていて友人にメールをおくり続ける人たち。おくるとすぐ返事がかえってくるのでまたおくる。会話の最中でもメールをおくる。よくみる風景ですが、なぜこんなに頻繁にメールをおくるのか、わたしは不思議に感じます。

ある中学生に聞くと、メールを出して返事が返ってこないと不安だといいました。孤独を恐れ、誰かとつながっていたくて、メールを出し続けているのかもしれませんね。


孤独は悪いことなのでしょうか? 病気になると孤独を感じます。自分だけ取り残されたように感じます。わたしはよく病気をしたので孤独を感じていました。また、中学2年のときには友達がひとりもいなくて、1年間孤独でした。結婚してからもおおいに孤独を感じました。

大勢の人の中にいても、仲のいい友達と一緒にいても孤独を感じることがあります。自分のことをすべて理解してくれる人はいないのだということ。どんなに親しい人でも、その人の感じ方、考え方は自分と違うということに気付いたとき、孤独を感じます。悲しくて胸が張り裂けそうになります。

でも、孤独の中で気付いたこと、学んだことはたくさんあります。中2のときはまだイエスさまのことを知りませんでしたが、自分という存在について考えさせられました。結婚前の孤独は、わたしを洗礼へと導き、結婚後の孤独は、わたしを教会へ導いてくれました。


旧約聖書に出てくるヤコブは、兄エサウをだましたことで殺意を抱かれ、たったひとりで1000qの道のりを歩いて伯父の家へいかなければなりませんでした。どれだけ心細く、どれだけ孤独の寂しさを感じていたことでしょう。でも、第1日目の夜に神さまからの語りかけを聞きます。

「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行ってもあなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない(創世記28:15)」

このところを読むと目頭が熱くなります。これは、ヤコブだけでなく、自分にも語りかけられた言葉だと思います。神さまは、いつも一緒にいて下さり、どこへ行っても守って下さるという約束をして下さっているのです。何と嬉しいことでしょう。

孤独を感じるときは、神さまに目を向けるときです。三浦綾子さんは「人は孤独を凝視しつつ何かを求めねばならない」と著書に書いています。

孤独を恐れることはないのですね。

posted by 土筆文香 at 21:28| ハテナシリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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