2010年08月27日

変えられるものと変えられないもの



ラインホルト・ニーバーの書いた「祈り」という詩を紹介します。

変えることのできないものに対しては、
それを受け入れるだけの冷静さを、
変えることのできるものに対しては、
それを変えるだけの勇気を、
そして、変えることのできないものと、
変えることのできるものとを見分ける知恵をわたしに与えて下さい


変えられるものと変えられないものというのは、病気についてもいえることですね。喘息はアレルギー体質からくるものですが、その体質を変えることはむずかしいです。(体質改善の注射などありますが、わたしには効果が現れませんでした)


でも、喘息を予防することはできます。完全に治すことはむずかしいけれど、ひどい発作を起こさないようにすることは、限界はあるでしょうが、ある程度は努力によってできます。

癌の場合はどうでしょう?再発転移を予防するには、食べ物に気をつけたり、ストレスをためないようにすること……。
これらは効果はあるでしょうが、絶対に再発転移しない方法は現在みつかっていません。
わたしが癌患者であるということ。再発転移のリスクを抱えているという事実はどう努力しても変えられません。だから、受け入れられるようにと日々祈っています。
posted by 土筆文香 at 20:56| 乳がん | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月26日

苦しみについて


2006年4月26日ブログ「生かされて」からの転載です。
乳がんの手術を受けて2年半。血液検査の結果、腫瘍マーカー値が高くなっていると言われ、再発転移の可能性が出てきたときに書きました。
(次に検査すると、数値が下がっていて再発転移ではありませんでした)


今日の祈祷会は先週に引き続いて苦しみの意味についてでした。いまのわたしにぴったりの学びでした。(ぴったり過ぎて、困ってしまいました)
神戸ひよどり台教会の大嶋博道牧師が5つの苦しみの意味について書かれています。


1)苦しみは私たちが人生の目的や意味を問う絶好の機会となります。
2)苦しみは私たちの生きたか、あり方を見つめ直す機会になります。
3)苦しみは人間存在の本質を教えてくれる機会になります。
4)苦しみは私たちが本当の幸いや喜びが何であるかに気づく機会になります。
5)そして、苦しみは私たちが神に向かい、神に近づく機会になります。


本当にそうだなあと思います。苦しみには何らかの意味があります。神さまは人を無意味に苦しめたりしませんし、罪に対して罰を与えたりすることはなさいません。苦しみの真っ最中にあるときにはわからなくても、いつかその意味がわかるときがくると信じています。
 
かつて、わたしは喘息で苦しんだとき、人間存在の本質について考えさせられました。

対人関係で苦しんだときには、自分の生き方を問い直し、自分を見つめ直しました。そして乳癌になってからは、人生の目的や意味を考えるようになり、与えられている時間の尊さ、命の尊さに気づきました。苦しみがあるおかげで、心はまっすぐに神さまに向けられています。

苦しみにあったことは良かったと思えますし、神さまから深く愛されていることも感じます。また、苦しみは訓練だということもよくわかります。

 でも、頭で理解していても、感情がついていかないときがあります。かつて、友人から苦しみを打ち明けられたとき、何とか励まそうとして「後になったら、このことも良かったと感じるものとなるわよ。神さまはすべてのことを働かせて益として下さるからね」と言ってかえって友人の心を傷つけてしまったことがありました。

そのようなことは、とっくに友人もわかっていたのです。わかっていても、つらい、苦しいという感情をどうすることもできなくて、ただ聞いてもらいたくて訴えていたのに……わたしは励ましの言葉がけをしなければならないと思ってしまったのです。


現在の苦しみについては、他者の助けが必要
とレジメに書いてありましたが、わたし自身、助けが必要だったのです。(過去形で書いたところに注目してください。もう、いまは大丈夫です)それは、自分でも気づかなかったことです。

この前の日曜にY姉の前で泣いたとき、たががはずれてしまったのでしょう。学びを終えてI先生から感想を尋ねられたとき、「今日はコメントしたくありません」と答えた後、不覚にもまた泣いてしまいました。隣の席にY姉がすわっていたこともあって……。

わたしの様子は、かなり変だと周りの人は思ったでしょう。でも、どう思われてもいいのです。みんな神の家族ですから。

感じたことがたくさんありすぎて何も言えず、一言でも話すと涙が出てしまうので答えられなかったのです。

今日祈祷会へいって良かったと思いました。そして、いまこのときに苦しみの意味について考える機会が与えられたことを神様に感謝しています。

レジメの最後に書かれていた聖書の言葉は、わたしがいちばん好きな聖書箇所です。

見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。(黙示録21:3−4)


やがて神さまがこの者の涙をすっかりぬぐい去って下さるとわかっているので、平安です。

posted by 土筆文香 at 21:07| 乳がん | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月17日

身体が弱くても


子供の頃から身体の弱かったわたしは、じょうぶになりたいと思い続けていました。非常に疲れやすい体質なので、とにかく人並みの体力が欲しい、喘息が完全に癒されたい、と強く願っていました。

健康雑誌を買ってきては、ありとあらゆる民間療法をためし、健康法のテレビ番組があると録画してまで見ていました。お昼にやっている番組で「ブロッコリーを食べると元気になる」と聞くとさっそくブロッコリーを山のように買ってきて、次にキャベツがいいと聞けばキャベツを……という時期もありました。

その後、いくら体にいい食べ物でも同じ食品ばかりとり続けるのはよくないとわかってやめましたが……。健康食品を買い求めて試したこともありました。でも、あらゆることをしても効き目はありませんでした。

信仰生活を送るのも、まず健康でないと充分な奉仕ができないので、健康になることが第一なのだと思っていました。
そしてスイミングを始め、10年間続けました。確かに水泳をしたら体力がつき、少しは効果が得られました。でも、喘息は治りませんでした。

感謝なことに喘息は予防薬を飲み、予防の吸入をすることによって、ほとんど発作が起こらないようになりました。でも、完全に癒されたわれではなく、未だに2か月に一度通院しています。

そして身体にいいと思われる物を食べ、健康には気を使っていたのにもかかわらず乳癌になってしまいました。食べ物や生活習慣においては癌になる要因は少なかったはずです。それなのに何故? とがっかりしました。

再発転移の恐れを抱いて苦しんでいたとき、
「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです(ヨハネ11:4)」
という聖書の箇所を読んで、はっとしました。 

わたしの生きる目的は神様の栄光をあらわすためだったはずなのに、いつの間にはきちがえてしまったのでしょうか。

健康になることが第一の目的となり、すべての関心事は健康に向かっていました。身体が丈夫でなくても、病をかかえていても、そのままで神様の栄光をあらわすことはできる。たくさん奉仕ができなくても、自分にできることをやっていけばいいのだと気づきました。

そして、病気だからこそできるあかしもあるのだと気づいて、身体が弱いことを喜べるようになりました。

乳癌になってはじめて目が開かれたという感じです。

posted by 土筆文香 at 17:33| Comment(0) | 乳がん | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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