2014年08月19日

「タリタ、クミ。」と祈るなら

わたしの通っている土浦めぐみ教会は、コイノニアと称して、韓国の大方(デバン)教会と友好関係をもっています。

コイノニアでは、幅広い年齢層の方々との交わりがあります。今年は大勢の青年たちが来日しました。17日の礼拝では、マルコの福音書5章から「タリタ、クミ。」という題で大方教会の牧師先生がメッセージをしてくださいました。一部を紹介させていただきます。(茶色字はわたしの思ったことです)


会堂管理者のヤイロは自尊心を捨ててイエス様のところへ行きました。娘が死にかけていたからです。そのときヤイロの家から来た人が「あなたのお嬢さんはなくなりました。」と言いました。

それは、ヤイロにとって絶望的な言葉だったでしょう。しかし、イエス様は言われました。「恐れないで、ただ信じていなさい」
イエス様は、この言葉を気休めに言われたのではないですね。何か対策があるから、「恐れないで」と言われたのです。

この言葉は、わたしたちの人生に対して言われていると聞いてはっとしました。
人生の中で何度か絶望的な気持ちになることがあります。愛する人の死、受験に失敗したとき、がんの宣告を受けたときなど……。
 そんな現実を前にして「恐れないで、ただ信じていなさい」とイエス様が言われるのです。


イエス様は3人の弟子だけを連れて病気の女の子と父母のいる部屋に入られました。
3人の弟子だけを連れて行くのは全人類の救世主として何かをなさるとき、ものすごい大きな神の業が起こるときです。

イエス様は「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」
と言われました。

イエス様は死、苦しみ、痛みを与えるためでなく、いのち、希望、喜び、平安を与えるために来られました。
人々はイエスの言葉を聞いてあざ笑いました。

イエス様は女の子の部屋に行って「タリタ、クミ。(起きなさい)」と言われました。すると、少女は起き上がったのです。
「タリタ、クミ。」はアラム語です。ギリシャ語に訳されていません。特別な言葉だからです。
初代教会の人たちは、この言葉を使って祈り、互いに励まし合っていました。

タリタ、クミ。は現代でも使うことができます。

1)自分自身に対して使えます。心が重くて崩れ落ちそうになるとき。鬱々としているとき、病に苦しむときなど。

2)環境に対して使えます。
どんな解決法も見つからないときなど

3)他者のために使えます。
力を失っている人に、絶望している人に、困難の中にある人に
「タリタ、クミ。」と祈って宣言しなくてはなりません。
「タリタ、クミ。」と祈るなら、神の驚くべき恵みがあります。人生の中に神の業が起こります。


イエス様はわたしにも「タリタ、クミ。」と言ってくださいました。霊的に眠っていたわたしに「起きよ」と語りかけてくださったのです。
posted by 土筆文香 at 17:31| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月17日

義母と母

先週は両方の実家に行ってきました。

今回は、息子が生後4か月の赤ん坊(ナルクン)をおばあちゃん(曾祖母)にみせたいというので、わたしも息子の車に乗せてもらって一緒に千葉に向かいました。後ろの座席にチャイルドシートが2つあるため、ほかにひとりしか乗れないので主人は電車で行きました。
車の中にいても熱中症になることがあるそうなので、心配でした。14日は曇っていて暑さが少しやわらいだのでほっとしました。
ナルクンは車が動くとすぐ眠ってしまいました。

ヒックンは、教会キャンプの翌日、ママのご両親に旅行に連れて行ってもらい、13日夜に帰って来たばかりでした。
疲れが出たのか機嫌が悪く、30分もぐずぐず言っていました。

指が痛いと言うので、みると深爪をしてしまったようで、膿がたまっていました。ママに膿を出してもらって消毒してからは、痛みがおさまったようで機嫌も直りました。

道路は少し混んでいて、2時間近くかかりました。
お墓に寄ってから、実家にいきました。義母はひ孫を抱いて感激していました。

14日の夜、わたしひとり千葉の主人の実家から三鷹の実家へ電車で行きました。東京駅で電話をしてから行くと、実家の前で母が小雨の中、懐中電灯を持って立っていました。駅から5分の場所ですが、心配して立っていてくれたのです。ジーンときました。

わたしが三鷹に行くことを知って、妹が来ていました。

三鷹へはたいていクリスチャン・ペンクラブでお茶の水に行く前日に泊まるので、たくさんのことはできませんでした。
でも、今回はペンクラブはなくて、2泊したので掃除や片付けがたくさんでき、ゆっくり話すこともできました。

母は昨年の夏、暑かったので食欲がなくなり、7sも痩せてしまいました。今年も猛暑でさらに3sも痩せたというので、心配です。一緒に料理をして食べると、久しぶりにたくさん食べられたといって喜んでいました。

義母87歳、母85歳。どちらもひとり暮らしです。老人ホームに入る話も出ていますが、なかなか難しいです。遠く離れて住んでいると常に気になります。
わたしは朝と1日3回の食前の祈りのときと夜、義母と母のことを祈っています。
posted by 土筆文香 at 17:21| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月11日

念願かなって

8日、9日は教会学校低学年キャンプでした。子ども30人、大人22人が参加しました。

今回は、祈りが積み重ねられて、孫のヒックンを参加させることができました。

教会学校教師をさせていただいて22年。夏期キャンプ参加は18回。最初はわが子と共に参加しました。その後、3回ほど姪を連れて行きました。まさか孫を参加させることができるようになるとは思いませんでした。

ヒックンをはじめて教会学校へ連れて行ったのは3日の日曜日です。3日は教会学校で礼拝の後、つくば宇宙センターJAXAに行きました。そのとき、ずいぶん馴染んでいました。

それでもキャンプは、ふだん教会学校に来ている子どもでも、母親と離れ難くて泊まるのはいやだという子どもがいるぐらいですから、どうかな?と案じていましたが、ヒックンは、最初から喜んで、ずっとハイテンションでした。

同じ学年の男の子と親しくなり、先生たちともたくさんお話ししていました。場所が変わったときは、不安そうにわたしの顔を捜していましたが、目が合うとにっこり笑っていました。

キャンプ一日目は教会バス2台でミュージアムパークに出かけました。行く途中で雨が降ってきました。プログラムは館内より外で遊ぶのがメインでしたので、どうなることかと思いましたが、外へ出るとちょうどいい具合に雨がやみ、中に入るとまた降ってきて……というあんばいで、雨のおかげで涼しくもなって、神様に感謝しました。

ミュージアムパークの庭で野外ゲームをしました。学年縦割りの4つのグループに分かれて行いました。
クイズの書かれているプレートを見つけ、クイズに答えながら30分以内に帰ってくるというゲームです。

教会へ戻って夕食のカレーいただいた後は、賛美集会です。聖書のお話を聞き、たくさん賛美しました。外が暗くなると、キャンプファイヤーです。キャンプファイヤーのときも雨が降ってきましたが、始まるとやみました。

夜は教会で泊まりました。みんなふざけて大騒ぎでしたが、11時ごろにはほとんどの子どもが眠ったようです。わたしはヒックンとは別の部屋に泊まりました。

翌日はオリエンテーリングをしました。グループに分かれ、教会の庭のあちこちの写真を見て、それがどこなのか探します。その場所にはカードが置いてあり、そのカードに書かれている文字を書き写します。
全部捜して書き写せたら部屋に戻り、文字を組み合わせてひとつの聖書の言葉を完成させます。制限時間以内にできたチームが得点をもらえます。

みんなが一緒に動けるように紐を持ち、汽車に乗って移動します。走ったら失格になると言うと、誰も走る人はいませんでした。
写真は滑り台の一部とか、ベンチの下の部分や植木鉢など、全部で12枚ありましたが、、わたしは1か所だけしかわかりませんでした。
1年生の男の子がほとんどわかっていたことに驚きました。若い教師たちが企画したのですが、大人は気にも留めない場所で、子どもが観察している場所をよく捜し出して写したものだと感心しました。

昼食は、校長先生とお母さんたちが鉄板で焼いてくれたおいしい焼きそば、おにぎり、とうもろこしです。
デザート流しがあって、流れてくる凍ったカップゼリーをつかまえました。

今回のキャンプのメッセージは創世記1章からでした。1節には「初めに、神が天と地を創造した」と書かれています。31節には「神は、お造りになったすべてのものを見られた。それは非常に良かった。夕があり朝があった。第6日」と書かれています。
神様はこの世界、宇宙、月星太陽、木、花、草、動物を造られ、人間も造ってくださいました。
わたしたちは神様によって造られたのです。そして、「非常に良かった」と神様が言われました。わたしたちは非常に良い作品なのです。

わたしは、このことを初めて知ったとき、飛び上がるほど嬉しかったのを覚えています。宇宙も地球も、自分自身も偶然にできたのだと思っていました。自分は失敗作品だから、自分なんかいない方がいいと思っていたのです。

いない方がいい人間などひとりもいません。神様によって造られたからです。そのままの自分を愛し、自分を必要としてくださっているのです。
このことがヒックンをはじめ、すべての子どもたちの心に届いていますように。

そういえば、今日はわたしの誕生日でした。58歳になりました。3日に同じ8月生まれのヒックンママと一緒にお祝いしてケーキを食べたので、今日は特別なことは何もありません。乳がん手術を受けて11年目、こうして元気でいられることは奇跡のようです。


昨日、日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しましたのでここをクリックしてごらんください。

posted by 土筆文香 at 16:36| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月30日

高一殺害事件・・・どうして人を殺してはいけないの?


ブログ更新が滞ってしまいましたが、元気です。しなければならないことが山積で、それが夏休みのためすすまないのでブログを書けませんでした。

また佐世保で痛ましい事件が起こりました。2004年に小学生が同級生を殺すという事件が起きて驚愕しましたが、こんどは高校生が同級生を殺し、しかも遺体を切断したというのです。

学校ではいのちの尊さを教えているはずなのに……なぜこんな事件が起こるのかと悲しくなります。
どうして人を殺してはいけないのかについて、教会学校でも語られ、また何度かブログに書いてきました。
その文章を今回書き直しましたので、お読みください。



すべての人は、神さまによって造られたのです。だから、どんな人も殺してはいけません。人間は他の動物とは違う特別な存在として……神さまと話したり、賛美したりできる存在として造られました。
「神はこのように、人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女に彼らを創造された。(創世記1:27)」と聖書にあります。

神さまは、すべての人を……ぼくも、わたしも、君も、あなたも、この人も、世界中すべての人をいちばん良くできた尊い存在として見て下さっています。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している(イザヤ43−4)」と神さまは言っておられます。

わたしたち人間を造られた神さまは、ひとりひとりをとても愛しておられます。
だから、このような(神さまに特別に造られ、特別に愛されている)人間を(自分も他人も)殺してはいけないのです。

イエス・キリストは、心の中でも人を殺してはいけないといわれました。それは、すべての殺人は、憎むこと、嫌いになること、腹をたてること、赦せないという感情から起こるからです。

人を殺したら神さまはとても悲しまれます。死んでしまった人の家族や多くの人が悲しみます。自分の一生を苦しめます。
殺してしまった人にどんなにあやまっても、その人は生き返りません。でも、殺人者を赦すことのできるお方(神さま)がおられることを忘れないでください。
人を殺さない(心の中でも実際にも)ためにはどうしたらいいでしょう?

1)赦すこと、愛することをイエスさまから学ぶ。
2)友達の悪いところばかり見るのではなく、いいところを見つける。
3)暴力的なビデオや漫画、ゲームなど見ない、やらない。
4)友達に対して思いやりの心、優しい心を持つ。etc……。

これらのことを心がけることが大切です。

「どうして人を殺してはいけないか?」ということを聖書を用いずに話そうとすると、子どもたちが納得する答えを出すのは難しいです。
人殺しは殺人罪だからダメだと言うだけでは納得しないでしょう。法で裁かれなければ悪いことではないと考えると、(極端な例ですが)殺人を犯しても誰にも知られなければ悪くないということになってしまいます。

殺人犯に対して、「あの人は人間じゃない」と言う人がいます。少なくとも自分と同じ人間だとは思えないからそう言うのでしょう。
でも、殺人犯の心理を書いた物を読むと、その人が特別冷酷な人なのではなく、追いつめられて人を殺してしまった。ほんの小さな憎しみ、ほんのささいなきっかけから殺人という行為に至ったという例が多いことに気づきます。
もちろん例外はありますが……。

自分が殺人罪を犯していないのは、環境が整えられ、守られているからだけで、心理的には殺人犯に近いときがあると思うことがあります。

「あの人なんかいなくなればいいのに」と心の中で思うことは、心の中で人を抹殺していることで、実際に殺さなくても殺人と同じ罪なのだと聖書はいっています。

小さな憎しみの芽がいつの間にかぐんぐん育って、心の中は憎しみでいっぱいになることがあります。憎しみを抱くと、その人自身の心も蝕まれていきます。

「自分の敵を愛し迫害する者のために祈りなさい(マタイ5:44)」と聖書に書いてあります。ひとりひとりが憎しみの代わりに愛を持つことができたら、戦争もなくなり、殺人事件もなくなるでしょうね。そうなってほしいと心から願います。
posted by 土筆文香 at 11:43| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月24日

内なる戦いと外なる戦い

梅雨明けしたとたん、ものすごい暑さがやってきました。
21日から3日間、息子一家が来ていました。わたしはヒックンと遊ぶ間もなく、三食のご飯作りに追われていました。


20日の日曜日は、詩編115編からメッセージを聞きました。
115編は、バビロン捕囚から帰ってきたばかりのころ書かれたそうです。
1節は「私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。」とあります。

「私たちにではなく」と2回も繰り返して書かれています。

エルサレムからバビロンに捕え移されたイスラエルの民が、再びエルサレムに戻れたのは、自分たちの行いが良かったからではなく、100%神様にしていただいたことだと強調しています。

100%神様にしてもらったことでも、自分の栄光に帰そうとするのは人間の本性だと聞いて、その通りだと思いました。賞賛を受けることがあると、「神様の力です」と口では言っても、少しは自分の努力もあると思ってしまうのです。

自分が栄光を受けたいという欲望が消えないことで悩み、苦しみます。でも、そういう思いと戦っていけばいいのですね。渡部和子さんも、憎しみや復讐したいという思いと戦うようにおっしゃいました。戦えば、主が必ず勝利させてくださるのですから、そういう思いが湧きあがったら、(湧き上がってしまう自分を責めるのではなく)戦っていきたいです。


他の国々は「彼らの神は、いったいどこにいるのか」と言ってあざけりました。エズラ記やネヘミヤ記にもあざけりを受けるイスラエルの民の苦しみが書かれています。

内なる攻撃と外なる攻撃にさらされて、意気消沈している人々に、「イスラエルよ。主に信頼せよ。この方こそ、彼らの助け、また盾である。(詩編115:9)」と励まします。
盾というのは、神の庇護、ゆるがない信仰の象徴です。

「主を恐れる者を祝福してくださる。(115:13)
主を恐れる者すべてに祝福が及んでいきます。

「天は、主の天である。(115:16)」
わたしたちの神は天におられます。天とは、神が自分たちの苦難に介入してくださる場です。

「しかし、私たちは、今よりとこしえまで、主をほめたたえよう。ハレルヤ。(115:18)」

嘆きで始まっていたこの詩が、心の底から喜びにあふれて、ハレルヤ!と叫んで終わっています。

これこそ、信仰者の勝利ですね。神様が内なる戦いと外なる戦いに勝利をもたらしてくださったのです。

posted by 土筆文香 at 21:14| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。