2014年07月08日

存在を認められて

日曜日に息子一家がきました。生後3か月になるナルクンは、6.2キログラムになりました。生まれた時の体重の約2倍です。

きげんがいいときは、ひとりで寝かしていても「あーあー」と声を出しています。
抱くと、じっとこちらを見つめます。まだ人見知りはしません。話しかけると、こちらの口の動きをまねて声を出します。話しているつもりなのでしょう。

おなかがすいてくると、全身の力をこめて泣き出します。手足をバタバタしておっぱいをさがして叫びます。小さな体からよくこんな力が出ると驚きます。いのちの躍動を感じます。

ナルクンが泣きだすとお兄ちゃんのヒックンは、ナルクンのところへとんでいきます。最初はあやしていますが、どうしようもなくなると、ナルクンの泣き声をまねて声を出します。その声は、赤ん坊の泣き声の特徴を捉えてそっくりなので、双子の赤ちゃんがいるようです。

「ぼくは、ママとナルクンが大好きなんだけど、ママは誰が好き?」とたずねています。残念ながらパパは3番目のようです。
ママは「ヒックンとナルクンが大好きよ」と言いました。存在が認められ、愛されている子どもたちはなんと幸せなのでしょう。


朝日新聞に生まれてから17年間戸籍がなくて過ごした子どものことが取り上げられていました。生後何らかの理由で親に隠され、出生届が出されなかったため戸籍がなく、学校に通えず、社会から存在を認知されず育った子どもが少なからずいる事実を知って驚きました。
同年代の子どもがランドセルを背負って学校に行っているのを見ながら、公園で時間を過ごしていたといいます。父親がそうさせていたそうです。

それにしても、長い間友達もなく字も読めないまま過ごした日々、何を考えて育ったのでしょう。
近所の人も変だと思いつつ深入りをしなかったようです。
戸籍がないことがわかったとき、どれだけ傷ついたことでしょう。この世に存在してないことになっている者だと知ったときは「わたしは誰なの?」と叫び出したい気持ちだったでしょう。

たとい社会で認められていなくても、あなたを造られた神様が、あなたの存在を認めておられます。あなたのことを誰も知らなくても、神様が知っておられます。愛してくれる人が誰もいないと思っても、あなたは愛されている存在です。


聖書の言葉
「女が自分の乳飲み子を忘れようか、自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。(イザヤ書49:15-16)」
posted by 土筆文香 at 16:21| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月05日

いちばん大切なものは?

今日は子ども家庭集会でMちゃんの家へいってきました。

子ども家庭集会では、身近なものを使ってゲームをしたり、聖書のお話しをし、賛美をします。今日は7人の小学生が集まりました。
お話はわたしが担当させていただきました。

聖書のたとえ話の絵本「おろかな金持ち」を読んでからメッセージをしました。
たくさんの財産、穀物を持っている金持ちが、蔵を建て、これで安心だと思った日に死んでしまったというストーリーです。

絵本を読んだ後、次のような話をしました。

「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。ルカ12:15」と言ってからイエス様はこのたとえ話をされました。

貪欲とはなんでしょう。この「おろかな金持ち」のようにものすごく欲ばりという意味です。

この人のどこが間違っていると思いますか?
この愚かな金持ちが得た〈穀物や財産〉は、もともとは神さまのもので、何かの目的のために彼に管理するように任せられていることを忘れていました。

また、自分の安全を保証してくれるのは、神様以外にはないことを忘れ、〈穀物や財産〉が守ってくれるのだと思い〈さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ〉と言いました。

それでは、イエス様は私たちがお金持ちになってはいけないといっているのでしょうか。いいえ、違います。お金が神様より大切になったり、お金を集めることだけが生きる目的になってはいけないと言っておられるのです。
あなたは「神様よりも大切にしているもの」がありますか?

お金でなくても、どんなものでも神様より大切にしているものがあるのなら、この愚かな金持ちと同じ生き方をしているといえます。
このたとえ話をした後に、イエス様は「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです」(ルカ12:21)と言われました。
〈神の前に富まない〉とは、神に繋がっていないということです。

それでは、神様はわたしたちにどのような生き方を望んでおられるのでしょう。
神様に繋がって神様を第一にして生きることを望んでおられます。

「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。(詩篇1:2-3)」  

このみことばの賛美をしました。


わたしもこのおろかな金持ちと同じでした。

以前わたしは、健康が一番大切だと思っていました。体が弱かったので、じょうぶになる方法はないかといろいろな健康法を試していました。体に良いものを食べ、サプリメントを飲み、週に2回スイミング教室に通いました。

元気でなければ教会の奉仕もたくさんできないと思い、まず健康になることを目標にしていました。
ところが、スイミング教室に通ってちょうど10年経ったとき、乳癌になりました。体にいいことばかりやっていたのに……とショックでした。

そのとき、健康になることを目的として生きていたことが間違えだとわかりました。弱く生まれたのは、神様が何らかの目的のためにそうしてくださったのです。

もちろん健康になることをめざし、体に気を付けることは悪いことではありません。
ただ、頭の中がそのことでいっぱいで、神様を第一にしていなかったことが間違えだったのです。
弱いからできることがあることに気づきました。弱いままでいいのだと思えました。
posted by 土筆文香 at 21:15| ハテナシリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月28日

時を待つ

昨日はOさん宅での家庭集会でした。マルコの福音書6:1〜6aからの学びをしました。

イエス様が公生涯に入られてから2回目に郷里ナザレを訪ねたときの出来事です。
1回目に訪れたときのことはルカ4:14〜30に書かれていますが、ナザレの人々はイエス様に強い拒否反応を示しました。

それなのにイエス様が再びナザレを訪れたのはなぜでしょう。ナザレの人にも福音を伝えたいと思われたからでしょう。
イエス様はナザレの会堂で聖書について教えました。当時、会堂ではユダヤ人の男子なら誰でも聖書を読んだり、語ったりすることができたので、イエス様のなさったことは、非常識なことではなかったそうです。

イエス様の言葉を聞いた人たちは驚きました。聖書には次のように書かれています。

「それを聞いた多くの人々は驚いて言った。「この人はこういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行われるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。この人は大工ではありませんか……」
                                              (マルコ6:2〜3)


イエス様の知恵や力あるわざに驚嘆しながらも、イエス様のことを以前から知っている人たちは馬鹿にしています。

当時「大工」という言葉は、石工や金工にも用いられる言葉で、一般的にはどんな仕事でも請け負う便利屋、細工師、技術屋をさしたそうです。

ナザレ以外の土地では、イエス様を預言者あるいは神であると思った人たちもいました。でも、イエス様の家柄や昔のことを知っているナザレの人たちは、イエス様を人間としてしか見ることができませんでした。

イエス様は家族からも理解されなかったのです。

「それで、そこでは何一つ力あるわざを行うことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。(マルコ6:5)」

と書かれているようにイエス様は奇跡を行うことをせず、立ち去りました。

ナザレで奇跡を行えば人々はイエスを神の子と認めるのに、なぜ奇跡を行わなかったのでしょう。行えなかったのでしょうか……。いいえ。行えなかったのではなく、あえて行わなかったのです。

不思議な出来事を見ただけで信じた者は、イエス様の教えを知ろうとせず、もっと奇跡を求めるようになります。不思議な出来事だけに目を向けるようになるので、奇跡を起こさなかったのです。

郷里の人たちは、イエス様を信じるのが困難で、かえってつまずいています。

「イエスは彼らの不信仰に驚かれた。(マルコ6:6)」と書かれていますが、それはナザレの人たちをあきらめたわけではなく、その人たちが信じるには時間が必要で、信じることができる「時」があるので待つとおっしゃっているのです。

後に母マリヤときょうだいたちは、イエス様を救い主として信じるようになったのです。

夫や母や息子たち、周りの人たちが救われる日をわたしは待っています。
posted by 土筆文香 at 16:41| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月24日

原因さがし

今日は午前中から激しい雷雨がありました。都内では雹が降ったとか……。テレビではどうしてこんな天気になるのか一生懸命説明していましたが、穏やかな天気に変えることは出来ません。大自然の前に人は何もすることができませんね。


先日の礼拝メッセージは、先週の続きで使徒の働き28章から語られました。
誰かが不幸な目に遭うと、その人の行いが悪かったからじゃないかとか、その人の親が悪いことをしたのではないかと原因探しをする人がいます。不可抗力の事故に逢うと、バチがあたったのだという人がいます。
そんな声が聞こえてくると、二重に苦しむことになります。

2000年前も、そのようなことがありました。パウロたちは難船してようやくのことでマルタ島にたどりつきました。
火にあたっていると、マムシが這い出てきてパウロの手に取りつきました。それを見た島の人は、パウロが人殺しだからバチが当たったのだと考えました。

でも、パウロはパニックにならず、落ち着いて対処しました。そして、何の害も受けませんでした。
このことは、以前イエス様が言われた約束の成就といえます。
イエス様は「信じる人々には次のようなしるしが伴います。(マルコ16:17)」と言われ、「蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず……(マルコ16:18)」と約束してくださいました。 

今日こうして生きていることが神様の約束の成就だと聞いて、ジーンときました。乳がんの手術を受けてから11年。こんなに生きられるとは思いませんでした。家事ができ、食事ができ、教会へ行け、こうしてPCの前にすわっていられる幸いを感謝せずにはいられません。


イエス様の弟子たちも因果応報的な考えを持っていたようです。弟子たちは、生まれつきの盲人を見て尋ねました。
「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」
イエスは答えられた。
「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」(ヨハネ9:2-3)


『神のわざが現れるため』という答えに感動します。

不慮の事故、突然の病気、災難が起きると、パニックになってしまいます。
何も悪いことをしていないのになぜこんなことが起きるの? と理不尽さに腹を立てます。
でも、神のわざが現れるために起きたことだとしたら、不幸と思われる出来事も実は不幸ではなく、幸いな出来事になります。

渦中にいるときはわからなくても、後に「よかった」と思える日が必ず来ると、神様が約束してくださっているように思います。
「恐れず、神に信頼して歩むとき、神の確かな守りと支えを知るでしょう」という牧師先生の言葉に深くうなずきました。
posted by 土筆文香 at 21:09| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月20日

低い自己評価

5/26の日経新聞に次のような記事が載っていました。

『日本の若者は自己評価が低く、将来を悲観している――。
2013年11〜12月に日本、韓国、米国、英国、ドイツ、フランス、スウェーデンでインターネット調査を実施し、各千人程度から回答を得た。日本では1175人が回答した。
 「自分自身に満足している」と答えたのは1位の米国が86.0%、6位の韓国でも71.5%だったが、日本は45.8%と著しく低かった。「自分には長所がある」と答えた割合も日本は68.9%で最下位。他国は93.1%(米国)〜73.5%(スウェーデン)だった。』


日本の若者は、自己評価が他国に比べて少し低い程度ではありませんね。著しく低いのです。
劣等感をもっている人が非常に多いです。自分の中に価値が見いだせないのです。
「自分に長所がある」と思わない人が30%以上もいるということに驚きます。

幼少のころからほめられるより、ダメなところを指摘されて、しかられながら育ってきた子どもが多いからではないでしょうか。向上心が出てくると思って親はしかるのですが、否定され続けていると、自分の中にいいものはひとつもないと思ってしまいます。
わたしも自己評価の非常に低い者でした。自分自身を否定し、別の人間になりたいと思っていたくらいでした。強い劣等感があり、自分は欠陥人間だと思っていたのです。

両親は厳しく、小学4年生までは口答えもできませんでした。でも、5年生になった頃から父親に逆らい、母親にも逆らう子どもになりました。反抗期は20歳近くまで続きました。

自分はどのような人間なのか、何をすればいいのか……それがわからないうちはゴールがみえないのにがむしゃらに走っているマラソン選手のようでした。遠回りし、ときには反対向きに走っていました。生きているのが苦しくて途中でリタイヤーしたいと思いました。

そんなとき、わたしが神様によって目的を持って造られた存在だと知ったのです。しかも、この大地が造られる前からわたしを造る計画がたてられていたというのです。
そのことを知ってどれだけ嬉しかったでしょうか……。

「すなわち、神はわたしたちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。(エペソ1:4)」

もし、人が偶然で生まれるのなら、人生の意味や目的を見出すことができないでしょう。偶然でできた人なら、その中に劣った人や優れた人があるいはいるかもしれません。

そうではなく、神が計画して人を創造されたのだとしたら、ダメな人間、不必要な人間などひとりもいないのです。
自分は能力がない、ダメだと思っている人にも隠された能力があり、その能力は何かをするためにあるのだと知るでしょう。能力にはさまざまな種類があるので優劣つけることはできません。学校のテストで測ることができる能力はほんの一部に過ぎません。

存在そのものが尊いことを、自己評価の低い人たちが知ることができますように。 

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。イザヤ43:4」

posted by 土筆文香 at 17:24| その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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