2014年06月03日

わたしの自分史

真夏のような暑さが続き、もはや夏バテしています。

31日は神楽坂で児童文学者協会の総会があって、児童文学の友人と出かけました。
友人と自分史を書くことの意義について話しました。友人は「波乱万丈の人生を書くなら読者も惹かれて読むかもしれないけど、平凡な人生を書いて何になるの? それに詳しく書くと差支えのある人が出てくるかもしれないし……。」と言いました。

朝日新聞で連載されている林真理子氏の小説「マイストーリー(私の物語)」は、自費出版社の編集者の目から書かれています。死ぬ前に自分が生きた証として自分史を書き、本を作って遺したいという人が増えているそうです。

本が完成すると子や孫、知人、親戚、友人に配りますが、売れるということは少なく、余った本はいずれは捨てられてしまうそうです。
子や孫に伝えるという意味では出版価値はありますね。

『自分史とは何を書くのか?』というところから考えてみたいと思います。
生れてから現在に至るまでに起きた出来事を書いていくだけなら、それは記録にすぎません。

旧約聖書の列王記には、王の名が次々書かれています。その中には敵国と戦って勝ち、領土を広げたとか、水道を引いたなど功績をあげた王がいます。
王として君臨した期間はそれぞれで、たった数か月の王や50年も王座についていた人もいます。でも、聖書には王座についていた期間や、功績は重要視せず、その王が神様に対してどういう態度をとったかを中心に書かれています。
長く即位した王も短い期間王だった人も、その一生は数行で終わります。王が、律法(神様の教え)に忠実だったかどうか書かれているのです。

一昨日の礼拝メッセージでは「自分史」を書くように勧められました。使徒の働き26章1-23はパウロの自分史です。クリスチャンを迫害していたパウロがキリストに出会って変えられ、神から使命をいただいて福音を伝える者となったことが書かれています。
「自分の人生は神の愛の見本です」
と牧師先生が言われました。

神様がわたしの人生にどのように働いてくださったか、神様によってわたしがどのように変えられたか記すのが、わたしの自分史です。

2007年に日本クリスチャン・ペンクラブで10代〜40代の自分史を書きました。
その自分史は、母に対する思いが神様によって変化したことをメインテーマにして書きました。50代はまだ書いていませんが、神様がますますわたしのことを愛してくださり、導いてくださっていることを書きたいと思っています。

「しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです(Tテモテ1:16)」
posted by 土筆文香 at 16:33| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月29日

こんなはずじゃなかった

昨日は水曜礼拝でした。
出エジプト記を学んでいますが、聞いたことをそのまま書くと原稿用紙20枚分ぐらいの長さですので、その中で特に心に残ったことだけを書くことにします。

モーセのミデヤンでの40年を歌ったもののようだとして、「生きる」の歌詞が紹介されました。

          生きる

「こんなはずじゃなかった」と思うときは生きるのがつらい
花を咲かそうと焦ってみても つぼみのひとつも開きはしない
生きる喜びも悲しみも すべてのことは神様から
無意味な時などひとつもなく 無駄な人生はどこにもない

「これでよい」と思えるとき 生きる喜びがあふれてくる
固く閉ざされた土の下にも 気づかないうちに根が伸びてる
生きる喜びも悲しみも すべてのことは神様から
無意味な時などひとつもなく 無駄な人生はどこにもない


この「生きる」という歌は、めぐみ教会オリジナルソングで牧師夫人のM・H先生が作詞作曲されたものです。土浦めぐみ教会のHPから曲が聴けますので、ここをクリックしてください。


人生の中でこんなはずじゃなかったと思うことが起こりますね。
「子育てに振り回されて自分の時間がなくて、やりたいこともできない時期が続き、ようやく子どもが大きくなって、自分の時間が持てたと思った矢先に……」「会社のために身を粉にして働き、やっと退職してこれからゆっくり好きなことをしようと思った矢先に……」
事故にあったり、癌になったり、予想もしない出来事に見舞われると、精神的に病んでしまうことが多いそうです。
精神科医の柏木哲夫先生はそれを「矢先(やさき)症候群」と名付けています。

イスラエル人でありながらエジプトの王子として育てられたモーセは、正義感からイスラエル人を虐待していたエジプト人を殺してしまいました。
そのことでエジプト人社会からもイスラエル人の社会からも拒絶されて、仕方なしにミデヤンの地に逃げて行きました。そこで40年も羊飼いとして過ごしました。
最初は、「生きる」の歌詞のように「こんなはずじゃなかった」と思ったことでしょう。

「こんなはずじゃない」という人生を歩んでいるというのは、「自分の人生」をまだ肯定できていない、また自分の現在の姿を受け入れられない状態のことです。
それに対して「これでいいんだ」という人生は、今の自分に対する恵みを十分に感謝できている状態のことです。
と牧師先生が言われました。

モーセはミデヤンの地で暮らす間に「こんなはずじゃなかった」から「これでいい」と思える人生に変えられたのです。
ミデヤンの地で40年過ごしたころ、モーセは不思議な現象を見ました。柴が燃えているのに燃え尽きないのです。その現象はほかの羊飼いたちも見ていたはずですが、見に行くために山に登ったのはモーセだけでした。

「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。(出エジプト記3:3)」と聖書に書かれています。
モーセは、不思議な現象として見たのではなく「大いなる光景」として見たことから神との出会いにつながったのです。

神との出会いは「不思議さ」に鍵があるのではなく、人が不思議な現象の中に「大いなる光景」を見いだせるとき、神との出会いの糸口が生まれるのです。


「こんなはずじゃない」と思っているうちは、神様と出会う可能性があっても、気づかずに過ごし、機会を失ってしまうような気がします。
どうしてもこうありたいという願いを強く持っていて、それが叶えられないかもしれないと思ったとき、「こんなはずじゃない」と怒りに似た感情を抱いてしまいます。そういうときは、見るべきものが見えていません。何かに囚われていて心に余裕がなく、神と出会うチャンスがきているのに失ってしまうのです。

でも、「これでよい」と思えたときは、心に余裕がもてます。自分ばかり見つめるのでなく、周りを見る余裕ができるのです。そんなとき、大いなる光景を見い出し、神との出会いの経験をすることができるのだなあと思いました。
posted by 土筆文香 at 16:34| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月27日

新しい力

この前の日曜日に息子一家が来ました。
ヒックンだけ土曜日から来て泊まりました。

土曜日、わたしはクリスチャン・ペンクラブの例会でお茶の水へ行っていたので、ヒックンは半日おじいちゃんとふたりで過ごしました。イオンに連れて行ってもらい、お昼を食べ、クレーンゲームをやって筆箱が取れたと大喜びしていました。

翌日は、生後2か月になるナルクンがきました。連休に会ったばかりですが、ひとまわり大きくなったように感じました。顔つきもしっかりして、呼びかけに反応するようになっていました。機嫌のいい時は声を出します。

夜、ヒックンが87歳のひいおばあちゃんに電話しました。おばあちゃんにナルクンの声を聞かせたいと言って、受話器をナルクンの口元に持って行くのですが、タイミングよく声が出ません。

「ナルクンの声を聞かせるのは、もう少し大きくなってからね」とわたしが言うと、ヒックンは「おばあちゃん。ぼくが代わりにナルクンの声出すね」

と言って、「アー、アー。アウー、アウ」とナルクンのまねをしました。
みんな大笑いです。

おばあちゃんは、ナルクンの声を聞かせようとしたヒックンのやさしさに感動して「元気が出たわ」と言いました。そのことをヒックンに伝えると、「おばあちゃん、元気がなかったの?」と心配そうにしていました。
人の心を思いやる子どもに育っていることを感謝しました。
ヒックンは「ああ、楽しかった。また来るからね」と言って帰って行きました。

帰った後はどっと疲れが出ます。疲れるということで、クリスチャン・ペンクラブで聞いた話しを思い出しました。一部紹介させていただきますね。

聖書には次のように書かれています。

「あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。 疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。(イザヤ40:28-31)」

年をとると「疲れた」というのが口癖になります。疲れを知らなかった若いころが懐かしく思えます。
でも、聖書には「若者も疲れる」と書かれています。それは、神からの慰めです。
「主を待ち望む者は新しく力を得……」
と書かれていますが、主を待ち望む者とはイエス様によって、新しく造られた者、すなわちクリスチャンをさします。

わたしたちは年をとって死ぬことが決まっています。裁きを受けることも決まっています。イエス・キリストにある者は、キリストの十字架と復活によって新しく力を与えられ、永遠のいのちを与えられると約束されています。その神の約束は、わたしたちの問題とは関係がありません。

『神の約束が先行している』と聞いて嬉しくなりました。
クリスチャンは、死に向かって歩いているけれど、復活の力に預かっているのです。
神様は「鷲のように翼をかって上る」ことができるほど、新しい力で生かしてくださるのです。

posted by 土筆文香 at 12:47| 日本クリスチャン・ペンクラブ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月23日

何のために生きているのか

昨日は我が家での家庭集会でした。先生と6名の方が来てくださいました。

「人生を導く五つの目的」(リック・ウォレン著 パーパス・ドリブン・ジャパン)の3日目を学びました。

この本は何度も読んでいたのに、久しぶりに読むと、すっかり忘れていて新鮮に感じました。

あなたの人生を動かしているものは何か?と問われました。

『多くの人は、罪責感に駆り立てられたり、怒りと憤りに駆り立てられたり、恐れに駆り立てられたり、受け入れられたいと言う必要に駆り立てられて生きている。』と書かれています。

確かにそうですね。
わたしは罪責感や恐れに駆り立てられて生きていました。恐れは振り払っても、振り払っても追いかけてきます。

『恐れとは、神が意図しておられる者となることを妨げる、自分で作り出した牢獄のようなものです』

冷静に考えれば恐れる必要はなく、恐れたからといって何のメリットもないことがわかっていても、自分の力では恐れを振り払うことができません。
わたしは、恐ろしくなったとき、いつも思い出す聖書の言葉があります。

「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。(Uテモテ1:7)」

このみ言葉は「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた」(創世記2:7)とリンクしていると教えていただきました。

神様は人を造られたとき、いのちの息を吹き込まれました。いのちの息とは霊のことです。神様から霊を吹き込まれたのに、人は罪を犯して神から背を向けてしまったため、臆病の霊を持つようになりました。でも、神との関係が回復して臆病の霊が取り除かれ、力と愛と慎みの霊が宿ったのです。

『最大の悲劇は死ぬことではありません。何のために生きているのかわからない人生ほど辛いものはないのです』

と書かれています。

生きる目的を持たないと、何のために生きているのかわからなくなります。
『目的を知ることによって、人生の焦点が定まる』のです。

わたしは、洗礼を受けた後、誤解していたことがあって、教会を離れてしまいました。その後結婚して子どもが与えられましたが、空しさを感じていました。
幼子を抱いて、この子が大きくなったとき、わたしの生き方を知ったらどう思うだろうと不安になりました。クリスチャンなのに教会へも行っていない自分。神さまの存在を信じているのかどうかもわからない状態で、何かあると柳の木の枝のように心が揺れていました。これではいけないという思いが募ってふたたび教会へ通うようになったのでした。

教会の婦人会の学びで「あなたの人生の目的は何ですか」という質問をされ、答えられませんでした。目的がわからないので空しかったのです。
「人生を導く五つの目的」には『人生の目的は永遠への準備をするため』と書かれていました。

また、神様の御前に立たされたときされる二つの質問が書かれていました。
ひとつは、『イエス・キリストに対してあなたはどのような態度をとりましたか。』です。
信じる前はイエス・キリストに背を向けていました。信じて間もないころも顔をそむけていました。でも、今はイエス様なしでは生きられません。

もうひとつの質問は、『わたしがあなたに与えたものを、あなたはどう活用しましたか』です。

これは答えに窮します。賜物を生かしきれているかどうかわからないからです。しばらくは賜物が何かわかりませんでした。書いて伝えることだとわかっても、十分活用しているか問われると自信がなくなります。

でも、与えられている肉体のいのちには限りがあるのですから、できるだけのことをしたいと思いました。永遠への準備という目的を持って。

「神は人の心に永遠を与えられた。(伝道者の書9:11)」


posted by 土筆文香 at 17:00| 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月20日

偶然ではなく

わたしが所属している日本クリスチャン・ペンクラブでは年に数回ニュースレターを発行しています。
ペンクラブ会員、クリスチャン用に出しているというより、外へ向かって発信しています。

今回は「救いの証」特集です。どのようにしてキリストを信じるようになったかを10数名が書いています。

人それぞれ違った道をたどってキリストに導かれました。信じるに至ったいきさつは、まわりの人も本人も予想できなかったことではないでしょうか。偶然のように導かれていくのですが、それは偶然ではなく神様があらかじめ計画されていたことだったと後で気づくのです。神様の必然といえるでしょう。

わたしの文章も掲載されています。わたしは誰かに誘われたのでも、誰かに伝えられたのでもなく、三浦綾子の本を読んで教会へ導かれました。

でも、本を読んだだけで教会へ行けたのは、その前に伏線が敷かれてあったからです。そして、おそらくミッションスクールの先生もわたしの救いのために祈っていてくださったことでしょう。

クリスチャン・ペンクラブは今年で62年目に入りました。初代会長が「花子とアン」の村岡花子だということに喜びを感じます。
そのことについても詳しく書かれていますので、ぜひペンクラブHPを開いてニュースレターをお読みください。
posted by 土筆文香 at 16:58| 日本クリスチャン・ペンクラブ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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